わたしはマララの映画専門家レビュー一覧

わたしはマララ

2014年に17歳にしてノーベル平和賞を受賞したパキスタン人の少女マララ・ユスフザイとその家族に迫ったドキュメンタリー作品。パキスタン・タリバン運動支配下に入ったパキスタン北部スワート渓谷での女子教育が妨害されている教育事情や圧政に脅かされた生活の模様をBBC放送のブログに綴り、タリバンに命を狙われてもなお子供の権利のために活動を続ける彼女の生い立ちや少女らしい素顔、教育者である父ら家族の思いを映し出していく。監督は「不都合な真実」で第79回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞したデイヴィス・グッゲンハイム 。
  • 映画監督、映画評論

    筒井武文

    もともと劇映画にする予定が、プロデューサーが少女本人と会って、ドキュメンタリーになったものだという。もちろん本人を記録した方が、彼女を演じる俳優の演技を見るより貴重なものとなるはずだ。しかし、撮っているつもりで、撮らされているかもしれない。撮るとは、撮る側の姿も垣間見せるものである。要は撮る側が彼女の何を撮りたかったのか見えてこないのである。映画のなかで、彼女とカメラの距離がまったく変化しない。つまり彼女のイメージは揺らがないのだ。

  • 映画監督

    内藤誠

    グッゲンハイムの「不都合な真実」は分かりやすい啓蒙的な作品だったが、この作品もノスタルジックな手描きアニメまで使い、充分に時間と金をかけた、ストーリー性のあるドキュメンタリーに仕上がっている。彼女をこよなく愛する父親にパソコンを教え、ブラッド・ピットが好きだと言うマララを等身大に映しているところも好感がもてる。だが、隣人たちの「彼女は有名になりたいだけさ」という批判まで録画しているのに、タリバンがなぜ、女子教育を憎むのかは分からないまま終わる。

  • 映画系文筆業

    奈々村久生

    思いのほか啓蒙的な作り。今の世相的に否定的なコメントも出てきづらいだろう。彼女は立派だ。それは大前提の上で、誰もが彼女のように声をあげられるわけではないという事実を強く感じる。力強く弁をふるうその姿が、彼女が代弁している少女たちやその現状と重なるかどうか。読み書きのできない母はなぜ今もできないままでいるのか。啓蒙色は特に音楽の力による印象が強い。ドキュメンタリーにおける音楽のつけ方はフィクション以上にデリケートに考えなければならない。

1 - 3件表示/全3件