島々清しゃ(しまじまかいしゃ)の映画専門家レビュー一覧

島々清しゃ(しまじまかいしゃ)

沖縄の離島を舞台に、音楽が人と人とを繋いでゆくひと夏の物語。耳が良すぎて少しの音のズレさえも頭痛のタネになってしまう小学生のうみは、コンサートのために東京からやって来たヴァイオリニストの祐子と出会い、頑なに閉ざしていた自分自身を解放していく。監督は「転がれ!たま子」の新藤風。脚本・音楽監督を「楽隊のうさぎ」の磯田健一郎、撮影を「永い言い訳」の山崎裕が担当。出演は「湯を沸かすほどの熱い愛」の伊東蒼、「百円の恋」の安藤サクラ、「アレノ」の山田真歩、「下衆の愛」の渋川清彦。第29回東京国際映画祭「日本映画スプラッシュ」部門上映作品。
  • 映画評論家

    北川れい子

    劇中で演奏される音楽は、沖縄の曲だけではなく、クラシックからブルースまで幅広い。人物や場所もさまざま。が常に目の前には青い海があり、風が流れている。音楽の上手、ヘタはともかく、目で“聴き”、耳で“観る”感じはとびきりだ。不純な音に過剰に反応する島の少女と、よそ者の演奏家、安藤サクラの関係が「0・5ミリ」的なのもニヤリとさせる。沖縄の特殊性よりも少女の特殊性の方が強い作品だが、それ以上に音楽。新藤風監督はむろん、伊東蒼も安藤サクラもアッパレだ。

  • 映画文筆系フリーライター、退役映写技師

    千浦僚

    米軍機の音に少女が耳を塞ぐ冒頭を観て、「ロシア52人虐殺犯/チカチーロ」「殺人の追憶」が圧政下で連続殺人が等閑に付される様を描いた如くもっと政治的隠喩の映画かと思ったが違った(そうであってもよかったが)。沖縄の風土と文化が映画被写体としてのヤバいのは、人間の幸福が本来は実に単純で、近代文明も国家も政治もその邪魔だと映ってしまうためだ。慶良間の少女の音感がその象徴のように西洋音楽に反駁するとも妄想(期待)した。いや、もっと現実的な、宥和の物語。

  • 映画評論家

    松崎健夫

    開始早々、この映画がどこかおかしいと感じるのは、季節が夏であるにもかかわらず、少女の耳にイヤーマフがあるからである。その理由が沖縄を舞台にしていることに関係しているのはすぐに判るのだが、さらに重要な点は「少女が音に過敏である」という設定にある。「音を合わせる」ことは〈平和〉のメタファーとなり、それが「人の音を聴かなければ合わない」=「人の話に耳を傾ける」ことを象徴させている。それゆえ少女は、映画の終盤でイヤーマフを外さなければならないのである。

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