映画専門家レビュー一覧
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ホロコーストの罪人
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米文学・文化研究
冨塚亮平
2012年に政府がはじめて認めたノルウェー国民のホロコーストへの加害責任を実在した離散家族に焦点を当てて問おうとする試みは疑いなく貴重なものだし、五輪直後の日本で本作を通じて差別や全体主義の恐怖と改めて向き合うことにも固有の意義があるだろう。しかし、おそらくは作品の印象が陰惨になりすぎることを嫌って導入されたと思しき収容所でのボクシングをめぐる演出には、事実(ランズマン)と虚構(タランティーノ)のいずれにも振り切れない本作の中途半端さが露呈している。
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日本未公開映画上映・配給団体Gucchi's Free School主宰
降矢聡
凄惨な歴史の映画化に関して、面白くしすぎてはいけないという問題がある。歴史改変や悲惨さの収奪になりかねないからだ。かといってホロコーストに加担したノルウェー秘密国家警察という「事実情報」を伝えるのでは映画である意味がない。目指すべきは情報に還元されることのない、占領下のノルウェーの人々の固有性をありありと捉えて見せること。しかし離散した家族が出会うハイライトを数分置いて二度続けて描いてしまう本作には、そういった瞬間は残念ながら多くない。
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文筆業
八幡橙
ノルウェーにまで及んでいたホロコーストの悲劇を、そこに加担したノルウェー人の罪というより、とある一家の無惨に打ち砕かれる幸せに焦点を当てて描く。主人公が収容所の豚小屋で非道な暴行を受けるシーンのすぐ後に、束の間の家族の語らいを挟む緩急の効いた演出に心揺さぶられた。横暴な権力の下で、市井の者が自由や権利を奪われる。これは過去の遠いどこかの物語でなく、今のあなたの物語でもあるのだと、終盤、無音の悲鳴を湛えた灰色の画面が淡々と強く、訴えかけてくる。
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劇場版 アーヤと魔女
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映画評論家
北川れい子
このアニメの広告チラシに、「単純に面白いと言えるのは、良いことなんです」という宮崎駿のことばが載っている。実際、ハナシの表面だけ観れば、アーヤの人心操縦術の巧みさは、魔法の力がなくても大丈夫に違いない。3D映像も、キャラクターたちのツルンとした表情以外は、背景、小道具など、実写に勝るとも劣らない重量感がある。けれども大人の事情で孤児院に捨てられたアーヤの、その大人側の関係が気になって――。魔女とか魔法で子供受けを狙っているような妙な作品だ。
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編集者、ライター
佐野亨
「葛藤と成長」がお題目のように唱えられる昨今、この物語の主人公アーヤの葛藤も成長もしない、他者をあやつることで自身の居場所を手に入れようとする姿は、そのまま「不正操作」に満ちた世界への抵抗を意味する。ギリアムの「バンデットQ」を例に出すまでもなく、本来、すぐれたファンタジーとはそのようなものではなかったか。さらにそれを誰よりも運命の不正操作に自覚的であろう宮崎吾朗が撮ったのが興味深い。気楽に観られる小品だが、たしかなアクチュアリティをそなえた一作。
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詩人、映画監督
福間健二
あっという間に終わった。退屈もしなかったことになるが、話の筋として、そうなることになっているからそうなると感じさせることばかりで、ハラハラしない。アーヤが「子どもの家」に受け入れられる。そこを出てベラ・ヤーガとマンドレイクの家に引きとられる。どちらも、おこりうる抵抗が封じられている。自分の思い通りにできるアーヤ。魔法もいらない気がする。吾朗監督、日本のアニメのここまでの達成から抜きたいものがあるのか。CGによる画、いつのまにか鮮度を失っていた。
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あらののはて
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
まず、構図とアングルに並々ならぬこだわりがあることがほぼすべてのカットから伝わってくる。それが少々過剰すぎて逆にノイズとなっている局面も少なくはないが、映画としての強度には貢献していると言っていいだろう。一方で、10代の少女の特異な性癖や、高校時代から抱えてきた想いを大人になって成仏させるというモチーフやテーマは、90~00年代の国内インディーズ作品でも散々コスられてきたもので、そこに新人監督に求めるような視点の新しさは感じられなかった。
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映画評論家
北川れい子
69分と小ぶりな作品だが、タイトルにも自嘲的な隠し味があるシリアスコメディで、脚本、監督の長谷川朋史、かなり達者である。高校時代に同級生の絵のモデルをしたばかりに性的な歪みが生じてしまったヒロインの、あのエクスタシーをもう一度。が、その高校時代の彼女のシーンがほとんど逆光で、表情が見えないのがもどかしい。絵のモデルになる肝心の場面も。しかもしっかり長回し。むろん、あえてそう撮ったのだろうが、ディテールが面白いだけに、表情の変化も見たかった。
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映画文筆系フリーライター
千浦僚
最初は場面や語り口について、こんなに無駄話やボーッとした佇まいでいいの、と心配したが途中グイグイ加速して面白くなった。敏捷な動物や幼児のように、まったく読めないリズムで向きを変えたり、走り出したりする体感の映画。気取らず、高尚ぶらず、また、いまだそれを自分で自覚も咀嚼もできない風情で女性の官能の不可思議と魔を語る映画。終盤のセリフ、「何か起こると思った?」が鋭く立つ。その期待の時間こそ劇。愛と戦いの女神、金星を背負った払暁の場面がよかった。
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シュシュシュの娘
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脚本家、映画監督
井上淳一
SAVEtheCINEMAの時に「作り手のミニシアターへの一番の支援は入る映画を作ることだ」と何人もから言われた。しかし、それが一番難しい。その壁を入江は10年ぶりの自主映画で易々と乗り越えた。だが、やはりこちらも安い嘘が気になる。家を荒らし祖父を暴行したら、立派な犯罪でしょ。なのに警察は民事に介入しないと言う。それが今の日本の縮図だとしても限度がある。一事が万事。自主映画だからこそ、安上がりしないで欲しかった。ミニシアター愛に★ひとつプラス。入って欲しい。
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日本経済新聞編集委員
古賀重樹
入江悠監督の映画のリアリティーはつくづく不思議なリアリティーだ。移民排斥も公文書改ざんもデータ争奪戦もほとんど戯画的、半ば荒唐無稽に描かれるが、その場に漂うゆるゆるとした空気がえらく生々しい。市職員や自警団の悪意のないニヤニヤ笑いとか、目立たない娘が庭で一人でやる体操とか。ああ、これがあの送電線があるサイタマの町の空気なのだ。そしてそれは今の日本のあらゆる社会の隅々にまで満ち満ちた同調圧力であり、そこからのささやかにして断固たる逸脱なのだ。
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スザンヌ、16歳
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映画評論家
上島春彦
良く出来た習作で楽しめるものの、脚本が作品世界をまだ客観視するに至っていない印象。主演者は昔だとソフィ・マルソーとかシャルロット・ゲンスブールとか、もっとさかのぼればジャクリーヌ・ササールの線なのだが、優等生なので肩入れできない。難しいものだ。だらしない女だったらもっと嫌な感じだったはずだから。アクションの同調という趣向が面白く、もっとそういう演出で攻めても良かったか。彼女が惚れる舞台俳優も物分かりが良すぎる気が。演出家のパワハラも問題だな。
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映画監督
宮崎大祐
監督本人演ずるボリス・ヴィアンを愛読する自意識強い系少女が当然のように同級生たちとはなじめず、年上の舞台俳優と恋に落ちるという筋書きだが、ふたりの出会いや心通わせる瞬間が演出の淡白さやカメラポジションのつたなさゆえにとらえきれておらず、なかなか映画に入っていけない。それでも、不安な時にはなんとなく家族のかたわらに佇んでしまうという、認めがたい幼さを顕在化させる一連のシーンには、この監督でしかとらえられない生のリアリズムがしっかりと映っていた。
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映画執筆家
児玉美月
20歳の監督自身によって演じられる16歳のスザンヌから決して視線を逸らさないカメラは、この映画を少女のある一時期の成長を追った実験的で虚実皮膜な記録映画たらしめている。16歳の少女と35歳の男性という年の差恋愛における危うさは、性行為がダンスに置換され、決定権を少女側に握らせることで聡明に回避されているだろう。ただ「17歳の肖像」(09)など同一のテーマを扱う映画は数知れず、そのなかで何か飛び抜けて秀でた新奇性があるかと問われると断言するのが難しい。
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大地と白い雲
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文筆家/女優
睡蓮みどり
好き勝手に生きる夫とそんな夫を愛し健気に生きる妻。夫婦の価値観の違いに焦点を当てているが、モンゴルの美しく広大なロケーションのなかで、延々と続く夫婦のすれ違いが間延びして感じられる。夫が都会へ出たい衝動と、妻が草原地帯のゲルに止まりたい理由をもう少し深く掘り下げて垣間見たかった。妊娠と体調不良で夫が愛に気づくのも、愛の物語としては男性的ご都合主義でやや昭和調。極めてホモソーシャルなカラオケのシーンではビール瓶のあまりの多さが可笑しく楽しい。
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映画批評家、東京都立大助教
須藤健太郎
羊と雲が形態の類似で繋がれるなら、青い空は緑の草原であり、馬とバイクは並んで走る。広大な草原も、はるかな地平線も、雲以外に陽を遮るもののない一面の空も、街に出ればカラオケのビデオに使われている。吹雪がもたらすドラマもありふれたものだ。いかにしてクリシェの上流にとどまるか。この映画が西部劇を思わせるとすれば、それはたとえばこんな問いを通してである。神話と伝説の生まれた地点を指し示すこと。それにはのっぺりと人物を照らす均一な光が必要なのだ。
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
行き先を言わずに出ていきたくなる夫の気持ちがよく分かる。なんか縛られてる気がするんだよな。久々に帰ってきた夫に、最初ブスッとしていた妻がお土産一つでコロッと笑顔になって甘える仕草のなんと可愛いことか。朴訥な二人の戯れあいが実に微笑ましい。そして二人が初めてスマホを買って、離れた部屋でお互いの動画を見ながら話すシーンがいい。スマホという道具があって初めて自分たちの本音が言えるのだ。簡単に夫婦愛を謳いあげないラストも良かった。
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子供はわかってあげない
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
沖田修一作品ならではの、人間そのものへの寛容さと信頼が全篇に溢れている。原作(未読)由来でもあるのだろうが、その性善説的とも言える映画作家としての資質と、「リアルな10代にこだわった」という主要キャラクターを演じる役者2人の相性も完璧で、物語の起伏のなさに比して少々長い上映時間も幸福に過ぎていく。しかし、一体これは誰に向けた作品なのだろう? 日々リアルな10代に手を焼いている親世代としては、作中の子供たちの屈託のなさと素直さが眩しいばかりだった。
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映画評論家
北川れい子
不勉強で原作コミックは未読だが、このタイトル、トリュフォーの「大人は判ってくれない」のお茶目なもじり? むろん、キャラクターも話もあの伝説的作品とはまったく無関係で、設定も青春映画の定番中の定番、ひと夏の冒険もの。けれどもこの冒険、危なっかしさよりも、つい笑いたくなるエピソードがてんこ盛りで、どの人物も魅力的。劇中に登場するテレビアニメがまたぶっ飛んでいて、さしずめ、このアニメが主役のような側面も。完璧なキャスティングの、中でも千葉雄大に拍手!
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映画文筆系フリーライター
千浦僚
少女のひと夏の冒険、少女と少年の思いが全篇に満ち、現代的な軽妙さで語られた。本作の上白石萌歌は「海辺のポーリーヌ」(83年・監督脚本エリック・ロメール)のときのアマンダ・ラングレに匹敵する。いまだにのんきな可愛さがセクシャルさを覆う季節のなかにいて笑っている。豊川悦司はいまこんなふうなのか、善人か悪人かまったくわからない変人な感じが面白いな、とも思った。ふと、映画全体から重さや生臭さが抜かれすぎてるのではという気もした。原作未読。読まねば。
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