映画専門家レビュー一覧
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フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン
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翻訳者、映画批評
篠儀直子
捏造映像を保険として撮影しておくことにしたのがやがてサスペンスを生み出すという、根強い都市伝説を逆手に取った着想がなかなか面白く、NASAを支えていた女性たちを讃える側面を備えているのもイマの映画らしくてよい。ところで作品の評価とは全然関係ないが、テイタムがチームメンバーを奮起させる演説シーンを見つつ、こういうのつい最近も見た気がするけど何だっけと考えてみたら「オッペンハイマー」だった。両プロジェクトの本質的類似性やら、表象行為の危うさやらを再度思い知らされた気分。
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編集者/東北芸術工科大学教授
菅付雅信
1969年の人類初の月面着陸に関わる陰謀をめぐるコメディ。切れ者のPRウーマンをジョハンソン、NASAの発射責任者をテイタムが演じ、二人の掛け合いの楽しさは50〜60年代のハリウッド映画的。全体に往年ハリウッド映画的かつ、古き良きアメリカ的なテイストが濃厚で、最終的に誰も悪役ではなく、見事にハッピーエンドとなる。しかし、その後の世界を生きる我々としては「古き良きハッピーエンド」で映画を終わらせていいのかと。たとえコメディにするとしても月面着陸に対する批評的視点が必要はなずでは。
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墓泥棒と失われた女神
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文筆業
奈々村久生
現時点の自分は、多くのロルヴァケル支持者に比べて、その美しい映像叙情詩を愛していない。ダウジングの能力を持つ主人公は「エル・スール」(83)を思い出させるが、あの父親もやはり喪失に囚われた男であった。失われた過去を幻想化して神聖視することは目の前の現実を容易に下に見ておろそかにする。ジョシュ・オコナー演じる男性のナイーブさは村上春樹的でもあり、幻想を取り戻すことがゴールではあまりに救いがない。その中で圧倒的な現在と現実を担う女性・イタリアの存在が希望だ。
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アダルトビデオ監督
二村ヒトシ
導入部で「幸せの黄色いハンカチ」みたいな人情話かと思ったら全然ちがった。超能力というものがあるとしたら(あるのだと思うが)それは正義のためや戦いのためには使われず、日々こういうことに使われているのだろう。もう死んでいる人から盗む泥棒は何を盗んでいるのか。泥棒にならざるをえない人々は誰から何を盗まれているのか。死んでいる人に恋し続けることは美しいことなのか。美術館や写真や一瞬の夢の中で見る過去の遺跡や過去の恋人は、どこから掘りだされてきたものなのか。
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映画評論家
真魚八重子
撮影は35ミリ、16ミリ、スーパー16を使っていて、時折左右にぼやけた黒味が出る。特に使い分けに法則は感じず、適当な割り振り方に好感が持てた。そもそも主人公のアーサーがダウジングで古代の墓を探り当てる時点で、マジックリアリズムのような映画だ。昔の墓に入っていくシーンの供えられた動物の人形の魅力。アーサーはこの世とあの世の狭間にいる人間だが、失ってしまった恋人、魅了される古代の遺物と、過去に引っ張られているようだ。それゆえのラストシーンがまばゆかった。
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HOW TO HAVE SEX
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映画監督
清原惟
友人と旅行に出かけた少女が、旅先で初体験をしようと意気込むが思わぬ方向へ行ってしまうという、デートレイプの問題を扱った作品。突然訪れる残酷な出来事に、自分でも自覚しないままに傷ついてしまうさまは、主人公を演じた俳優によって生々しく表現されていた。少女らしい見栄の張り方、妬みや苦しみが、簡単に割り切れない複雑なもののまま存在していた。ただ、最後に突然訪れるシスターフッド感と、無理やりにでも元気を出そうとする結び方は、少し乱暴な感じがしてしまった。
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編集者、映画批評家
高崎俊夫
見終えたあとで、ジェーン・カンピオンの絶賛や性加害のモチーフを潜在的に忍ばせさせた果敢な問題提起作という高評価に触れてやや意外だった。リゾート地に卒業旅行でやってきてお酒とダンスに興じる3人のティーンエイジャーの空騒ぎが延々と無造作に点描される。そのうちの一人がヴァージンであることに引け目を感じてひと夏の冒険を試みるという過去に無数に変奏されてきた〈初体験ヴァカンスもの〉のバリエーションであり、それ以上でも以下でもない。それとも私は全く別な映画を見ていたのだろうか。
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映画批評・編集
渡部幻
宣伝の通り“直感的で感覚的な体験”であると同時に“感情的な経験の追体験”を探求した青春映画。物語としては何度も見てきたありきたりな青春の通過儀礼だが、描き方が違う。10代の少女のセックスへの憧れとプレッシャー、同意なき経験の痛みに皮膚感覚で寄り添いながら、前向きで、非感傷的である。全ての映画は人間の経験を扱っている。人の経験には個人差があるが、どこかで似通ってもいる。だからこそ私たちは経験の物語を共有できる。そんな映画の可能性を拡げる試みであり、この新鋭監督の才能だろう。
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キングダム 大将軍の帰還
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ライター、編集
岡本敦史
吉川晃司無双と大沢たかお歌舞伎が火花を散らす場面はずっと面白い。両者が戦場のド真ん中で繰り広げる一対一のバトルと、馬陽の戦いに決着がつくまでの一大スペクタクルは、確かに入場料の元は取れる見応えだ。とはいえ、そこに至るまでが長い。冒頭はツイ・ハーク作品も思わせる吉川アクションで魅了するも、中盤はファンフレンドリーに徹するがゆえ省略できない部分が多く、かなりの忍耐を強いられる。主役の影の薄さもシリーズ随一だが、見せ場は最高という評者泣かせの一篇だ。
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映画評論家
北川れい子
今回もスペクタクルな戦闘シーンに因縁のある人物やそのエピソードを絡ませて進行するが、際立って魅力的なのは、大沢たかおが演じる大将軍・王騎の冷静かつ圧倒的なリーダーシップ。「キングダム2 遥かなる大地へ」の終盤に登場したときも、不敵な笑みを浮かべて大合戦を俯瞰していたが、その王騎が中華統一を目指す秦国軍を率いて戦う本作は、です、ます調の台詞といい、小事に拘らない大局的な戦術といい、実に鮮烈で、さしずめ大沢たかおのワンマンショー! あっ、吉川晃司の怪演にも拍手。
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映画評論家
吉田伊知郎
もはや王騎を眺めることが最大の目的となっていた本シリーズ。作を重ねるごとに王騎役の大沢たかおが、とんでもない肉体と演技にバージョンアップしていく。これまで後方に控えてきた王騎による肉弾戦と饒舌な語りが中心となる本作には大いに満足するが、女優陣の扱いは薄い。清野は相変わらずアクションで際立つとしても、橋本、長澤、佐久間は突っ立っているだけで顔見世以上のものではなく、摎役の新木優子の細い身体と腕は、原作もそうだからとは言え、実写では説得力に欠ける。
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大いなる不在
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文筆家
和泉萌香
まだ何も見ていない、もうすでに見た、何も見ていない、と反芻し続けたくなる魅力の作品だ。あっけにとられる逮捕シーンから始まり、自分の人生に長らく不在だった父が語る話、優しい義母の失踪……と少しずつ玉突きのように広がっていく謎のほか、登場人物たちのさまざまな感情をかかえながら、ある地点での状態の理由を明かすべく、まさに無限階段の時間をみせてゆくエレガントな手腕。藤竜也が発する声、呼びかけによって、どこかSFの手ざわりも感じられる傑作。
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フランス文学者
谷昌親
疎遠だった父親との再会、その父親の認知症、結婚前の父と義母のあいだの秘められた情熱的な愛、そしてその義母の失踪、そうした重たいテーマのそれぞれに、近浦啓監督は真摯に向き合っている。だが、その真摯な姿勢が映画的な柔軟さを奪い、ひとつひとつのピースがばらばらのままになってしまった。職業は俳優という設定の主人公の卓(森山未來)が劇中で演じようとしているイヨネスコの『瀕死の王』のほうが、映画そのものよりもむしろ魅力的に見えてしまうのは、なんとも皮肉だ。
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映画評論家
吉田広明
二十五年ぶりに父親と再会する主人公が視点人物で、父親の現在から過去を辿ることになるが、父親はいわば信用できない語り手であり、彼の語ることが本当なのか嘘なのか次第に分からなくなってゆく。とはいえその原因は認知症であって、そう言われれば何の驚きもないのだが、それをあえて羅生門形式のミステリ仕立てにするのは目くらましに見える。特に冒頭の逮捕場面はミスリーディングであざとく、そのせいで虚実のはざまに見えてくる真情も、共感度を著しく損なうことになる。
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お母さんが一緒
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文筆家
和泉萌香
男がどうの、あんたがどうのと互いを責めたてる姉妹たち、もうやかましいどころではないのだが、彼女たちはそうして「結婚」という同じひとつの言葉をぶつけ合い、「結婚」以上の複雑な呪縛、負の連鎖を引き剥がそうと頑張り叫びつくす。一晩明けてのさっぱり感は微笑ましく、その奇跡(!?)に救われたのは、彼女たちよりも母親か。「ゴド待ち」ならぬ「母待ち」でもなく、肝心の母も同じ旅館内にいる設定と施設での喧嘩っぷりは、映画の中でも現実性が欠ける気がするが……。
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フランス文学者
谷昌親
脚本も手掛けているペヤンヌマキの戯曲が原作で、いかにも舞台劇らしく、終始温泉宿で展開する三人姉妹のほぼ一日の物語であり、俳優たちの演技も映画的というよりはむしろ演劇的と言えなくもないのだが、それがむしろコメディとしてのこの作品のあり方をうまく際立たせている。緻密に構成されつつパワフルに展開する原作と芸達者な俳優たちに身を委ねるかのように、これまでとは違い、余分な力を抜いた演出を披露した橋口亮輔監督によって、良質のコメディ映画が生み出された。
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映画評論家
吉田広明
キューカー「女性たち」を思わせる密室女性劇。とは言えあれほど姦しくはない。母親を出さず(別室にいる)、主要舞台を姉妹らの一室に限る設定が、原作が演劇であることを思い起こさせるが、映画だと少し窮屈な印象。末妹が婚約者に対して吐く決定的な一言が、聞いてなかったでスルーされる、最後の母親の肯定的な言葉で結局事態が全て丸く収まるなど、いささか緩いのが引っかかるが、よく出来たドラマ。ただ、今これは映画として必要なのか、橋口監督がすべき題材なのかは疑問が残った。
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クレオの夏休み
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俳優
小川あん
一つ一つのシーンが幼きクレオの記憶として、大切に扱われている。秀逸なのは、映されるいくつかの手元のショット。洗濯物を畳む母親代わりのグロリアの手。しかし、そこにはいないはずの我が子たちの存在を強く感じさせる。クレオがグロリアの素肌を指で触れる。同様に、亡き母親の存在がある。それらのショットは言葉より強い仕草で愛情を示し、その深さの海図は印象的なアニメーションで表現される。グロリアとクレオの永遠の絆はカメラのフィルターを越えるほどの温もりを与えた。
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翻訳者、映画批評
篠儀直子
いわゆる「マジカル・ニグロ」(白人に都合よく奉仕する黒人キャラクター)のパターンになるのではと冒頭懸念したが、全然違う趣向の物語に。クレオはグロリアを実母のように慕うが、グロリアもその家族も、新しい子守が来れば他人になってしまう人々だ。クレオやグロリアから離れまいとするかのようなカメラ(ウニー・ルコントの「冬の小鳥」を思わせる)の親密さ。母親と過ごすはずの年月をクレオに奪われていた少年セザールの苛立ち。挿入されるアニメーションにも催涙効果あり。これはたまらん。
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編集者/東北芸術工科大学教授
菅付雅信
パリの6歳の少女クレオが、アフリカ系の乳母グロリアが故郷に戻ることになり、彼女を訪ねてアフリカへの旅に出る。好奇心に満ち未知なるものとの出会いに一々興奮するクレオ役の少女が素晴らしく、劇映画とドキュメンタリーのいいとこどりをした高揚感とリアリティがある。願わくは、もう少しドラマ性があったほうが楽しめるのだろうが、そうなると映画が嘘っぽくなるのだろう。大まかな物語の筋はあるが、ほとんどドキュメンタルな現場感で作られている(ように見える)、フィクションとドキュメントの見事な交差点。ちょっとした映画の発明。
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