映画専門家レビュー一覧
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言えない秘密(2024)
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映画評論家
吉田広明
ピアノが嫌いになっていた音大生が、妖精的な存在により音楽への愛を取り戻す。定型的な物語であるが、定型は内容の理解が早い利点もある一方、個々の作品を呑み込んでしまう怖いものでもある。個性は伝統のもとに発揮され、伝統は個性によって賦活する。何も新しい作品が新奇でなければならないこともないが、定型への意識(それが批評意識であり、個性)は必要に違いない。それが無ければ単なる「使用価値」(この場合「泣ける」等)しか残らないが、そんなものは早晩摩耗するだろう。
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WALK UP
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俳優
小川あん
今までありそうでなかった、ワンシチュエーション縦4層構成。娘を含めた女性4人に対してのそれぞれの時間軸を経て、主人公の男性を多方面から覗き見る。会話劇として肝心なはずの会話は、中身があるようでないよう。傍観するしかない観客は、どこに当の本人の姿があるのか見失う。そうしてるうちに、ひとり煙草を吸うビョンスの無の時間で幕は降りる。結果、悩める男を悲哀の者にしてしまうのだ。こういったある意味の悪事を見事なセンスでホン・サンス先生はこっそりカバーする。
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翻訳者、映画批評
篠儀直子
作中に出てくる台詞を聞いて、なるほどホン・サンスの映画は酒を飲みながらだらだら観るのにちょうどいいのだ(そして酔いが回ってわからなくなったらその地点からまた繰り返し観ればいいのだ)と膝を打ち、今回は変なズームとかないんだな、ある意味正攻法の撮り方だなと思っていたら、最後の最後にこんな仕掛けがあるのだから油断がならない。原題は「塔」という意味だが、階を上がるたび変わるビョンスの姿は、まさに「どれもビョンス」なのだろう。クォン・ヘヒョが美声の持ち主だと今回気づく。
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編集者/東北芸術工科大学教授
菅付雅信
韓国のインディー映画作家を代表するホン・サンス監督の最新作は、まるで彼のアバターのような映画監督が主人公となり4階建てアパートメントを舞台に、各章ごとに一階ずつ上の階に上がっていく4章構成の繊細なコメディ。悩み多き中年映画監督だが女にはモテるところはウディ・アレン的。モノクロの画像が美しく、ウィットに富んだ会話が楽しく、時間経過が曖昧なままエピソードがつながり、最後が円環構造になる構成の斬新さに感服。「映画作家」への批評的視点も持った、見事な映画作家映画。
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スリープ
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文筆業
奈々村久生
睡眠中の夫の奇行が心身機能の異変か超常現象かの境を行き交うストーリーテリング。「ローズマリーの赤ちゃん」(68)に連なる系譜で、本作の核心は、最も身近で信頼すべき相手を信じられなくなる恐怖だ。愛する人が得体の知れない存在になっていく。その葛藤と戦う妻をチョン・ユミが好演。夫役のイ・ソンギュンも昨年韓国での公開時に観たときはまだ存命だった。惜しむらくは映像が暗いこと。光量を落とせば暗さが写るわけではなく、闇は光との対比であり、影の濃さで体感したかった。
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アダルトビデオ監督
二村ヒトシ
不眠で生活に支障をきたしたり悪夢に殺人鬼が現れるのではなく、よく寝てるのに動きだして昼間はしない異常行動をしちゃう。夢遊病者は内面の無意識で抑圧(幸せな夫婦が抑圧が強いのは現実によくある)から解放されてるのか、外部の超自然の悪意に呪われているのか、ホラー映画の文脈では峻別困難だという脱構築ホラー。章立てで視点が変わるのは「来る」と同じだが、あそこまで無惨ではない。睡眠中に自分で顔を掻きむしるのが事件の発端で、アトピー持ちの僕としては複雑な気持ちに。
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映画評論家
真魚八重子
イ・ソンギュンは韓国の俳優の中でも三本指に入るほど好きだったので、亡くなった今その姿を観るのは悲しい。映画の構成は章立ての通り、妻の出産を境に狂気に憑かれているのが夫から妻に移行して見える。無防備な赤ん坊を前にして、母性が女性の正気を奪うのは正しいかもしれない。後半のチョン・ユミの演技は恐ろしく、何をしでかすかわからない演出と芝居は秀でている。ラストは芝居なのか、本当に霊が抜けたのか、観客に判断を委ねるタイプで、珍しく面白い宙吊り感があった。
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ふたごのユーとミー 忘れられない夏
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映画監督
清原惟
まず、ひとりの俳優によって双子の少女が演じられていることにとても驚いた。そしてそのことに常に意識を奪われながら見てしまったようにも感じる。双子の恋とお互いへの想いの間での葛藤を描く物語なのだが、全体的にかなりクリーンな映像で、少年少女も絵空事のように美しいので、あまり内容に親身になれない感じがあった。それでも、同じ俳優が双子を演じていても、映画が進むうちに全く別の人に見えてくるのは、演技というものの不思議さに改めて思いめぐらせるきっかけになった。
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編集者、映画批評家
高崎俊夫
双子というテーマは「らせん階段」から「シャイニング」まで恐怖映画と相性が良いが、思春期の恋愛ものはどうか。近年、タイ映画は前衛的なアートフィルムから時代の先端を行くエンタテインメントまで懐の深さを垣間見せているが、監督が一卵性双生児姉妹である本作のような等身大の視点を感じさせる作品に出会うと妙にホッとする。親密なスロームービーの趣向とは裏腹に貧困で離散を強いられる過酷な家族の肖像は苦い現実のリアルさを突きつける。
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映画批評・編集
渡部幻
田舎で夏休みを過ごした女の子2人と男の子1人の恋模様。飽き飽きの設定だが、少し変わっているのは舞台が1999年のタイで、主人公が双子の少女の点。長篇デビューとなる監督も双子の女性であり、新人女優が一人二役で双子を演じている。何をするにもシェアしてきた双子も中学生となり、ある出来事をきっかけに心優しい少年をシェアすることになってしまう。恋は大人への一歩で、やがてはそれぞれの恋をして、人生を歩まねばならない。わざとらしいほど天真爛漫として純情な3人のセンチメンタルな成長物語。
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わたしの物語
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文筆業
奈々村久生
差別や偏見が生まれる一因として「見慣れていない」ことは強く作用する。監督かつ被写体であるエラの下半身が短い容姿は多くの人にとって「きわめて稀」だと思われるが、約1時間半の上映中にエラの姿に触れ続けるだけでも認識は劇的に変わる。要は「慣れる」。四肢延長と再建手術の権威である医師との対面はハイライトで、誰かを否定したとて自分を肯定できるわけではない複雑さをエラの表情が物語る。エラの夫の視点がないことは、彼女たちの関係にとって障がいが絶対的ではない証だろうか。
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アダルトビデオ監督
二村ヒトシ
エラ監督は美人だ(とジャッジしてるんだからこの短評はルッキズムという差別である)が映画ではそこは言及されない。若い美女でありつつ障がい者でもあることはそれはそれで大変だろう。ところでメガネをかけなければ外出できない我々は障がい者だが、メガネやコンタクトという補助具が普及しまくったから生きることができてる。治療したほうが幸せだという医療モデルと、矯正するのではなく当人の自己受容の尊厳を大切にするべきとの考えの、人生を賭けた対立が凄い。いい映画でした。
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映画評論家
真魚八重子
生まれつき、両足に障がいがあるエラ・グレンディニング監督。特徴的な障がいの中でも、片足だけの症状が多く、両足という例は他に会ったことがないという。障がいが世界でも自分だけというのはなんと不安なことか。その合間に映るエラの私生活は、恋人と生活をエンジョイする積極性が印象深い。手術による治療も進んでいるが、幼児期から何度も手術をし、部分的な切断なども余儀なくされる。自身で判断がつかぬ年齢からの治療や、健常者と同じが良いことなのかを問いかける映画だ。
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アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家
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映画監督
清原惟
アンゼルム・キーファーの作品を紹介するためにヴェンダースがとった手法は、言葉を削ぎ落として、高精細で抽象的なイメージを使うということ。少年時代のシーンなどはノスタルジーを感じてしまわなくもないが、同世代の作家として世界観に共鳴して撮っているのも窺える。制作風景の場面では、80歳近い作家自身が熱々の液体を絵にぶちまけていてスリリングで良かった。ヨーロッパの負の歴史に向き合う作家が、現代社会とどのように向き合っているのか、もっと知りたい気持ちが芽生えた。
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編集者、映画批評家
高崎俊夫
ヴェンダースは敗戦の前後に生まれ、同時代としての戦後を生きたアンゼルム・キーファーの膨大な作品を俯瞰する際、注釈としてハイデガーとパウル・ツェランを引用する。ナチズムの〈凡庸な悪〉を告発したハンナ・アーレントの愛人・師でありナチスに加担した大哲学者と虐殺から生き残ったユダヤ詩人の対比が印象に残る。とりわけツェランの肉声による詩の朗読が延々と流れる件が忘れがたい。ホロコーストの呪縛を抱えた母国へのアンビヴァレントな想念が本作の純粋心棒といえよう。
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映画批評・編集
渡部幻
ドイツの芸術家アンゼルム・キーファーのドキュメンタリー。冒頭にドレスの彫刻群が現れる。頭がなく、代わりに本や石が乗せられ、ガラスの破片が刺さったものもある。女性の声——「私たちは名もなく忘れられし者。でも私たちは忘れない」——空間を時間が浮遊している。ドイツ降伏の1945年に生まれたアンゼルムは、自国の過去と対峙し、その忘却に抗う壮大な絵画と彫刻を連作。同年生まれのヴェンダースは「ベルリン」を撮った。3Dを2Dで観た。が、それでもここには紛れもない“映画の感動”があった。
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ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ
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映画監督
清原惟
人間は自分以外の誰かのために自分の人生をつかうことができる。そのことを信じさせてくれる素晴らしい作品だった。初めは気軽な学園コメディだと思い観ていたが、少年が一人取り残されるあたりから、クリスマスの神聖な空気も相まって映画全体が神秘的な空気で包まれた。出てくる人たちは、別にみんな善人というわけでもない。それでも、たとえ人生の中の一瞬の出来事であっても、人間と人間の儚く強い結びつきが存在できたことに心震える。クリスマス映画の定番になってほしい!
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編集者、映画批評家
高崎俊夫
1970年という映画の時代背景はアメリカン・ニューシネマの全盛期にあたるが、既成のヒットポップスを一見、無造作に垂れ流すような手法はまるで「卒業」のようである(映画館でD・ホフマンの「小さな巨人」を見るシーンあり)。無論下敷きになっているのはハル・アシュビーの「さらば冬のかもめ」だろう。互いに反撥しあう師弟関係が繊細な感情教育によって変容を遂げてゆく。こんな深い味わいをもったロードムービーは本当に久しぶりだ。ポール・ジアマッティの新たな代表作である。
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映画批評・編集
渡部幻
アレクサンダー・ペインは今もロードムービー作家であり続けていて、世がどうであろうとも人間主義を手放さない。名優ポール・ジアマッティも同様だ。例えば同じペインとの「サイドウェイ」、あるいはクローネンバーグの「コズモポリス」終盤で映画全体をさらったあの人間臭さ。1970年のクリスマスが舞台の教師と生徒の物語。冬の映画であり、70年代のハル・アシュビー好きは気に入るのではないか。我が道をゆくアメリカ監督による小さな宝石。ぼくならオスカーはジアマッティに投票しただろう。
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ディア・ファミリー
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ライター、編集
岡本敦史
「実話ベースのお涙頂戴もの」というイメージで甘く見てはいけない良作。日本人好みの『下町ロケット』的な熱血技術開発秘話と、常に哀歓を湛えた家族の年代記が並行して描かれる物語は、現実の悲劇に対して不謹慎な物言いだが、秀逸な構造である。それに対してオーソドックスに徹する演出の賢明さも好ましい。ただ、IABPバルーンカテーテルという名称を劇中であれだけ連呼するなら、もっと専門的ディテールを見せてもよかった。観客の知識欲も満たすことが作品の厚みになるのだから。
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