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戦争中、中国の南京、上海にいて終戦で45年12月帰国。同12月末、占領軍専用のアーニー・パイル劇場(現・東京宝塚劇場)の制作部に助手として入り、戦前アメリカで振付師として活躍していた舞踊家でアーニー・パイル劇場総監督をしていた伊藤道郎(みちお)の下で働き、外人ヴォードヴィリアンのショーを見るうちタップの初歩を学ぶ。アーニー・パイル劇場に2年、アメリカン・クラブに2年、横浜のシーサイド・クラブに1年、この間、ショーの制作・演出にたずさわる。さらに50年、プロ野球のサンフランシスコ・シールズが来日したさい歓迎会の司会役・松井翠声が病気で倒れ、その代役をつとめ、ついでジャズの司会にも乗り出す。51年、ハリウッドの射撃の名人と自称する芸人ケニー・ダンカンが来日、この司会役として名を売る。日劇ミュージックホールの司会者兼タレントとして迎えられ「レディース・アンド・ジェントルマン……おこんばんわ」といったおかしな英語と東京弁をごちゃまぜにしたような台詞と、ソロバンをリズム楽器として使う奇抜なアイディア、戦後日本人のアメリカナイズを自己嘲笑的に表現したこれらの“芸”で異能ヴォードヴィリアンとしてたちまち人気を得るとともに“おこんばんわ”をはじめ「さいざんす」「バッカじゃなかろか」「家庭の事情」など彼の発する台詞が次々と流行語となる。51年、日米合作映画「運命」に出演。同年、東宝専属となり、映画、舞台、さらにテレビと幅広い活躍を始める。映画は52年「集金旅行」ほか、53年には「社長三代記」「大当り狸御殿」「アジャパー天国」「底抜け忍術合戦」など約20本に出演、54年には彼の主演で宝塚映画が「家庭の事情」シリーズ計4本を封切り、以後60年にかけて数多く出演した。その後パッとしなかったが、62年10月スタートの日本テレビ『アベック歌合戦』でカムバック、ツイストまがいの踊りに「アナタのお名前なんてえの」の司会の文句はこれまた大流行したが、65年、放送番組向上委員会からトニーのツイストの踊り方が卑猥であるなどの理由からワースト番組のヤリ玉にあげられ、68年3月、この番組終了とともにトニーもまたテレビから姿を消し、77年からNHK『てんぷく笑劇場』ほかに再び活躍している。55年7月、長男が誘拐され身代金200万円を要求され、愛児は無事もどったが戦後最初のアメリカ的誘拐事件として騒がれた。
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