映画専門家レビュー一覧
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四畳半タイムマシンブルース
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
原作の元になった小説『四畳半神話大系』と戯曲『サマータイムマシン・ブルース』に加えて、それぞれのアニメ化作品や実写化作品などハイコンテクストな背景を持つ本作だが、一本の映画として向き合うなら、そのあまりに特異な文体に面食らわずにはいられない。説明台詞の洪水は昨今のアニメ作品において珍しくはないが、本作は行間すべてを状況描写と心の葛藤と妄想のナレーションで埋め尽くす。丁寧にデザインされた作品ではあるが、観客としての想像力をここまで制限されたくない。
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映画評論家
北川れい子
昭和的なバンカラ人間がとぐろを巻いている京都の下宿屋の大騒動。猛暑の苛立ちとお節介な役立たずが右往左往しての進行は、タイムスリップとか、宇宙消滅とかややこしいが、テンポと勢い、そして「私」の無機質な早口台詞に飲みこまれ、ただアレヨアレヨ。個人的には同じ森見登美彦原作を湯浅政明監督がアニメ化した「夜は短し歩けよ乙女」の方が好きだが、これはこれで十分面白く、上田誠戯曲との合体、成功度は高い。もちろんキャラクターデザインも、音楽も言うことなし。
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映画文筆系フリーライター。退役映写技師
千浦僚
京大の習俗ほどではないが私も90年代に大阪の辺境大学の映画研究会に属していたので奇人にまみれて奇行が常態化し、最初に住んだ酷暑のアパートに耐えかねて十回生の先輩の住まいを譲り受けて住み替えたがそれを大家に無断でやって仰天した大家に厳重注意される(当たり前だ)などしていたので本作のムードはわかる。ただ、今の学生はこういう青春奇行をしてるのか。してほしい。05年の実写映画「サマータイムマシン・ブルース」よりも格段に面白くなった変奏、アニメ化だった。
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愛してる!
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脚本家、映画監督
井上淳一
白石晃士は相変わらず力があるが、得意のPOV形式がエロを語るのに適していたかどうか。撮影者との関係がわからないから、どうして自らの性まで撮らせるか分からない。百歩譲って主人公はいいとして、他の登場人物はどうか。SMやるなら、撮る側撮られる側の関係性の逆転こそやるべき。主人公の履歴や性遍歴が見えないから、SMと同性愛への枷も見えない。それを超える瞬間のカタルシスもない。ロマンポルノはそういうことちゃんとやってたけど。そもそもこれってロマンポルノ?
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日本経済新聞編集委員
古賀重樹
生々しい身体が映っている。観念からの解放が映っている。それだけでロマンポルノに挑戦した意味はあると思う。リアルタイムでロマンポルノを見ていた世代がどうしてもその形式の呪縛から逃れられないのに対し、73年生まれの白石晃士監督は自由奔放に撮りながら、このジャンルの核心をグイっと鷲?みにしている。川瀬知佐子や鳥之海凪紗といった新人女優たちのほとんど素人と思わせるようなリアルな存在感もまたロマンポルノ的。そう、重要なのは考えるより、感じることだ。
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映画評論家
服部香穂里
プロレスと地下アイドルライヴとSMプレイのあいだに、パフォーマーと客との心身密着型エンタテインメントという共通項を見出し、それを大胆に連動させる発想はユニーク。ただ、白石晃士監督の代名詞ともいえる“モキュメンタリー”の手法は、ホラーには有効かもしれないが、常に介在する第三者の目が、人物たちが味わう興奮や快感をダイレクトに伝える上での支障にもなっている。世にも奇妙な“変態讃歌”に大化けする気配漂う企画だっただけに、一考の余地もあったのでは。
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マイ・ブロークン・マリコ
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脚本家、映画監督
井上淳一
虐待父や虐待男の性を含む暴力を甘んじて受け入れる女友達をやはり受け入れる永野芽郁。しかし友達は不意に自殺。即火葬され、遺体との対面も出来ない。本質的に友を救えなかった、救おうとしなかった。だから永野は遺骨を奪って旅に出る。それは欠落した友に自分がいかに依存していたか、自らの欠落を知る旅。ラストの手紙を見せずに成立させるスゴさ。永野の煙草を吸う仕草、生き方まで見えるよう。心の襞の奥まで分け入ろうとするかのような演出。こんな監督に自作を撮ってもらいたい。
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日本経済新聞編集委員
古賀重樹
生きづらさを抱えた女二人のシスターフッドものだが、片方のマリコは冒頭ですでに死んでおり、すべては残されたシイノの喪の作業として語られる。男たちの暴力に怯え続けたマリコ。そんなマリコを面倒くさいと思いつつ守り続けたシイノ。その暴走ぶりは爽快であると同時に痛々しい。親友の生きづらさを受け止めきれなかった悔恨も含めて、このくだらない世界にたった一人で立ち向かうシイノ自身の生きづらさが、永野芽郁のあられもないアクションを通して鮮やかに立ち上がる。
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映画評論家
服部香穂里
親友を亡くした悲しみ以上に、ひとり取り残された怒りに突き動かされているがごときシイノの壊れっぷりに、マリコとは違う無自覚ゆえの強靭な図太さが光る。窮地の度に登場する役得の窪田正孝が少々ご都合主義にも映るが、現実と幻想との境目を曖昧に撮っているため、シイノの潜在的バイタリティを覚醒させるためのみに現出した守護神のような存在にも見えてくる。共依存にも似た重めの友情を美化せず客観視する役回りの、飲み屋のおっちゃん連中や“クソ上司”もいい味を出す。
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ミューズは溺れない
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脚本家、映画監督
井上淳一
今号三本目の女と女の映画。これが一番心に響いたかも。好きだと同性に告白され、あたし、まだ一度も人のこと好きになったことないの、変でしょ、と吐露させるなんて。唸った。それが表現の問題にも絡む。同じ美術部。相手は才能があるけど、自分は何を描いたらいいか分からない。「人と違ってダメなの?」という自己肯定と「自分に生まれて良かったと思ったことある?」という自己否定が同居する。青いけど、むき出しな感じがたまらない。才能ってあるんだと思う。大切にしてほしい。
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日本経済新聞編集委員
古賀重樹
なにより3人の女子高校生たちを生き生きと撮れている。自意識をもてあまし、他者に苛立ち、ナイフのような言葉で人を傷つけてしまう少女たちを。新人の淺雄望監督は上原実矩、若杉凩、森田想という3人の若い女優を型にはめず、自然な身ぶりと表情を引き出す。少女たちの間に走るピリピリした緊張感、思春期のアンビバレンスを捉える。だから画面から目を離せない。大人たちの造形が紋切り型だし、自分探しの物語も陳腐だが、そんな瑕疵を補って余りある生々しさがある。
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映画評論家
服部香穂里
溺れる者は藁をも?む、どうしようもなく無防備で決定的なダイナミズムの瞬間を捉えた絵画のインパクトが、映画の未体験ゾーンへと導いてくれそうな期待感を高める。しかし、言葉にしづらい気持ちや衝動を、進路に悩むふたりの女子高生のがむしゃらな創作活動を通して発散するさまを丹念に描く前半を経て、他者を理解できなきゃ気が済まない友人の純粋な好奇心を呼び水に、寡黙な人物にまで冗舌に喋らせすぎ、既視感を覚える青春ものへと収束していくのが、何だか歯がゆい。
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プリンセス・ダイアナ
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米文学・文化研究
冨塚亮平
フィクションではないため近年の知見を活かしてダイアナの人物像や王室観をアップデートするという方向をとることは出来ず、結果的にマスコミの過剰報道に殺されたと言ってよいであろうダイアナの悲劇を、再び当時のマスコミが垂れ流したゴシップ映像から再構成するという何がしたいのかわからない内容に。実際に今作に関心を持つ層とも重なるはずの、皇后雅子や小室圭のゴシップに触れて妄言を撒き散らしてきたヤフコメ民諸氏は、是非本作を観て皇室報道について考えてほしい。
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日本未公開映画上映・配給団体Gucchi's Free School主宰
降矢聡
映画がはじまって十数分が経ったところ、チャールズとダイアナの結婚式の模様が映し出される場面で「おとぎ話は普通ここで終わります。“末永く幸せに暮らしました”といいう言葉と共に」とナレーションが言う。本作が描くのはそんな、おとぎ話が決して描かない、結婚後のダイアナ妃についてだ。加熱するマスコミ報道についての事柄が中心だが、王室という存在の意義や批判も語られていく。しかしなにより、ダイアナ妃の存在そのものが類い稀な被写体であることを実感させられる。
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文筆業
八幡橙
ナレーションもテロップも使用せず、何千時間から選りすぐった記録映像を時系列に沿って繋いだだけの構成がむしろ響く。夢のような結婚式の前後から加速する若き妃に注がれる過剰な視線、さらに夫婦を巡る極めて下世話な醜聞合戦にパパラッチの暴走……。マスコミを時に利用し、時に憎んだダイアナ自身と王室、またマスコミを糾弾しながら大衆紙や暴露本を買い漁る国民の功と罪、いずれの側面をもさりげなく突いてゆく。君主制とは何か、解けない謎を見つめるタイムリーな一本。
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1950 鋼の第7中隊
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
冒頭、次から次へと人が集まってくる感じにワクワクした。こいつらがこの後どういう活躍をするのか? 予感に震える。いざ戦闘になると、一気にテンションが上がる。いっときも目が離せない。第7中隊のキャラクター設定も際立っていて、それぞれに背景と見せ場を用意してある。友情と正義と戦うしかない悲しみと。ユーモアも残酷さもある。大味じゃない。丁寧な描写と迫力に唸るしかない。監督が三人もいる。ツイ・ハーク&チェン・カイコー&ダンテ・ラムって何なんだ。贅沢。
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文筆家/女優
唾蓮みどり
鳴り止まない銃声と爆音、血が飛び散りうめき声と叫び声が聞こえる。戦争が過剰な音楽で演出される。これが3時間近く続く。画面に映るのは99パーセント以上男性たち。どちらか側に加担した、制限された視点からしか見ることができないなかで、いまこの時代に改めて戦争を描くことについてどう思うのか。スペクタクルだけで押しきって語るのはあまりに無責任ではないだろうか。私は、初めて人を殺した少年の目に英雄性を見出さないし、賛美もしない。簡単に感動なんてしない。
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映画批評家、東京都立大助教
須藤健太郎
反米を謳う内容だというのに、できの悪いハリウッド映画の紛い物になってしまう。よくあることだが、これもその1本か。オープニング・クレジットの感じと曲調がどことなくMCU風だと思っていたが、後半に凍った兵士たちが出てきて確信犯かと思い至る。零下40度の極寒の中で敵を待ち伏せし、銃を構えた体勢のまま凍りつき、銅像のようになった中国の志願兵たち。米兵も思わず敬礼する。マーベル映画のどれか忘れたが、エンドクレジットで登場人物を銅像化していたのがあった。
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ドライビング・バニー
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
主人公の女の人は、いい人なんだけど怒りを抑えられず乱暴になってしまうキャラクター。良かれと思ってやったことが、ことごとくうまくいかない。負けず嫌いで、抵抗しまくる。車の中にションベンしたりとか手がつけられない。椅子でガラスを粉砕するところ、最高だった。そんな彼女の少し狂ってるけど切実な思い。ハッピーバスデーの歌声に涙が止まらなかった。彼女のことをわかってくれる人がどこかにいる。それが物語の救いになっている。人物への眼差しがやさしい。
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文筆家/女優
唾蓮みどり
まるで子どもがそのまま大人になったようでバニーを見ていて落ち着かない。時にとても身勝手で、それでもその叫び声からは痛切な何かが伝わってくる。共感力や繊細さにかけるようで、他の人が見て見ぬ振りをすることに気づく。一部の大人のための“社会”に適合するのは難しい。次第に少しでもバニーに不安を感じた自分への苛立ちが募る。だからあえて「応援する」という言葉は使いたくない。ただこの無謀にも思える逃避行を一緒に見届けさせてほしいという願いに変わる。
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