映画専門家レビュー一覧
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ドライビング・バニー
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映画批評家、東京都立大助教
須藤健太郎
ご都合主義とは何かが知りたければ、この映画を見ればいい。出来事を脚本の都合によって順に生じさせていくことだ。冒頭の家庭支援局の場面から顕著である。バニーがロビーにいると、若い女性が受付でぞんざいに扱われている。そのやりとりが終わると、急に赤ん坊の泣き声が響く。泣き止んだタイミングで、今度はバニーの子どもたちが現れる。全篇この調子。ラストに主題歌の流れるなか、救急車での言葉のやりとりが間奏中で、会話の終わりとともに歌が再開するのも同じ論理による。
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とどのつまり
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
映画・演劇関係者の居酒屋愚痴トークみたいなものがこの世で最も苦手な自分にとっては設定自体がしんどい。最近だと「ある惑星の散文」もそうだったが、作り手と演者と観客が半径5メートルのサークルで自足していれば、そこで燻るのも当然。奇を衒ったアングルや切り返しというだけで、意志が感じられないショットの連続にも辟易。図らずも登場人物の実家部屋に脈略なく貼られた「過去の名画」のポスターが象徴しているように、映画というアートフォームの形骸化ここに極まれり。
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映画評論家
北川れい子
タイトルに皮肉を込めたつもりなのだろうが、このオリジナル作品の主人公たちも、自意識過剰で自分に甘い。役者をしているという3人のエピソード。但し役者としてのキャリアなどは一切描かれず、ワークショップで芝居の稽古をしている場面が何度もあるだけ。そのたびに打ち上げの飲み会も。さしずめ片山監督の周辺にいる役者さんたちがヒントになっているのだろうが、実績がなくても自称で格好がつくのは詩人と役者志望、演じている俳優陣はそれなりに達者だが、話は堂々巡り。
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映画文筆系フリーライター。退役映写技師
千浦僚
登場人物の日常に苛立つ。あの鈍さ、退屈さ。世に打って出たい役者があれではいけない。数年間、映画人を養成する学校のスタッフだったことがあるが、そこでの飲みの席などで繰り広げられる対話は常に熱かった。そのジャンルへの思いでみんな狂っていた。そこで燃えていた者がいま活躍しクレジットに名を見せている。自らが燃えねばそこに光はない。耳かきみたいなセックスで終わるな。映写室に入り浸ることをやめるな。人物らに内心呼びかける。本作にまんまとハメられたか。
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バビ・ヤール
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映画評論家
上島春彦
全篇アーカイヴ・フッテージの凄味。最小限の説明字幕で鮮明な映像自体に語らせる。ナチによるユダヤ人大虐殺映画は数あるも、扱われるのはアウシュヴィッツの強制収容所よりずっと早い41年の事例で驚く。舞台はウクライナ、ドイツ占領下のキーウ。惨劇の始まりはここだった。虐殺の直接映像はないが直前の集合写真を見るだけで痛ましい。どこもかしこも痛ましいが、ある意味、最も残酷なのは戦後、当局が現場をレンガ工場の処理用水場にしてとっとと埋め立てたことじゃないかな。
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映画執筆家
児玉美月
星の数はこの映画の前ではもはや形骸化し何の意味もなさないが、ロズニツァのフィルムには、彼がこの映画を「アート」と形容するように、つねにその芸術世界へと否応なしに身体が巻き込まれてしまっている恐ろしさをおぼえる。終盤の法廷におけるひとりの女性の証言には迫力が漲り、そこには映像の不可能性が逆説的に立ち上がってくるようでもあるが、同時に映画が語りうることの奇跡に肉薄しているようにも思える。原題に付された「コンテクスト」が、重層的な意味を帯びてくるだろう。
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映画監督
宮崎大祐
何者かがなんらかの意図を持って撮影した戦時中の記録映像をいま新たなる意図をもって再編集し映画作品に仕上げるという制作プロセスが浮かび上がらせるのは、現代においてわれわれが歴史を語ることの不可能性と、それでもあえて歴史を語らなければ早晩人間は人間でなくなってしまうのではないかという作者の存在論的な逼迫である。本作でもセルゲイ・ロズニツァは猛烈なニヒリズムの嵐の中に身を置きながらも、その中心で人間への信という名の真っ黒い篝火をかざしている。
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暴力をめぐる対話
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
よくこれだけの映像を集めてきたと思う。生々しい暴力描写を延々と写し続ける。居丈高な警官たちが超ムカつく。怒りで体が震える。ホント最低! やられた人たちや擁護している人たちの話だけじゃなくて、警察関係者も発言しているのが良かった。でもやはりと思う。これでは警察が圧倒的に悪者だ。もちろん悪いんだけど。複雑な気持ちになる。映像を切り取るとどんなふうにでも解釈できる。途中で喋っていた風格のメチャクチャあるおばさんが良かった。頭がいいってこういうこと。
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文筆家/女優
唾蓮みどり
パリで起きた黄色いベストを身につけた市民によるデモと、市民に警察が向ける武器。銃を向けることはもとより暴力は簡単に人間から言葉を奪う。向けられた銃を前に対話は成立するのか。スマートフォン撮影をはじめとした数々の暴動の映像を前に、意味や考察、反論などの言葉が付け加えられていく。特に作家のアラン・ダマジオが「誰かを“暴力的だ”と指摘する正当性を誰が持っているのか」という言葉が残った。“暴力的”なのではなく“暴力そのもの”が映し出される意味を考える。
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映画批評家、東京都立大助教
須藤健太郎
ラストショットをどう捉えるべきか。批判を見越したものと思うが、私にはやはり許容しがたい。映されている内容がおぞましいからではない。この直視しがたい映像があたかも結論であるかのように最後に置かれているからだ(このラストへの伏線が作中に仕込まれているためそう見ざるをえない)。この映画は対話であると同時に映像の分析であり、そういう言葉の力に賭けられているように見えた。だが、最後に見せられるのは見る者をただ絶句させる、極めつけのスペクタクルではないか。
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犬も食わねどチャーリーは笑う
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
「郊外で生活するどこにでもいるような夫婦」を何の違和感もなく自然に演じてみせる香取慎吾と岸井ゆきの表現力は評価に値するが、だからと言って「郊外で生活するどこにでもいるような夫婦」をわざわざスクリーンで見たいと思うかどうかは別の話だ。5年ほど前にネットミームとなった「だんなデス・ノート」に着想を得たオリジナルストーリーは、その題材選びの是非はひとまず置いておくとしても、台詞回しや言葉遊びにおいても全篇を通してうっすらとスベり続けている。
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映画評論家
北川れい子
妻がSNSで自分の夫を槍玉にあげて悪口三昧とは。いくら理由があったとしても、まるで、いじめの意識もなく乱暴な言葉を投稿する小・中学生並みのレベルで、コメディ仕立てのつもりでも、笑うどころではない。「箱入り息子の恋」ほか、市井監督のオリジナル作品はウェルメイドな娯楽映画として楽しんできたが、今回はただのワル乗り、ワルふざけ。夫の職場はホームセンターで、このあたりの演出は実感があるが、そもそもSNSネタ自体が安易で、映画でスマホ画面など見たくなし。
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映画文筆系フリーライター。退役映写技師
千浦僚
単に気の利いたネット文化っぽい憂さ晴らしかと思いきや、そこは越えた。ときに幼く、ときに老成して見える岸井ゆきのがよかったし、それを受ける香取慎吾もなかなか。主役の夫婦の姿は物語の進行とともにどんどんかっこわるく、醜く、陰惨になっていく。マサッチオが描く「楽園追放」の泣き顔の男女。もう破綻と別離が必然のように見える。それに抗する祈りとしての生活小物の列挙、風に舞うビニール袋を追うこと。困難な主題×異様な盛り上がり場面=映画、を志向した作品。
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あの娘は知らない
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脚本家、映画監督
井上淳一
高校時代、同性に告白したことを未だに揶揄される主人公がどうしてその土地に留まっているか分からない。遺された旅館のためなのだろうが、それへの拘りも見えない。映画で描かれる時間までの生き方が書かれているようで書かれていない。ご都合設定が積み重ねられていく。20代前半、いくら才能があっても引き出しがそうあるはずもなく、撮ることは出来ても書くことは出来ない。ちゃんとプロデュースする人はいないのか。これじゃすぐ飽きられる。仕事があることは誇れることではない。
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日本経済新聞編集委員
古賀重樹
恋人を亡くした旅人と両親を亡くした旅館の女主人による海辺の町での喪の作業。ほとんど二人の会話だけで押し切ってしまうところに井樫彩監督の潔さと力量を感じる。恋人や両親がなぜどのように死んだのかはあえて描かない。同性への片思いや子供をつくれない体であることも後景にとどめ、二人の喪失感の重みだけと向き合う。夜の海に浮かぶ二人、ゴミ捨て場の酔った二人、山に登るリフトの二人。そんな二人の孤独を浮き立たせる水、光、風。この監督には画面で語る力がある。
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映画評論家
服部香穂里
亡き恋人が最後に見た情景にふれたいと願う旅人と、幼い頃に亡くなった家族に代わり、若くして旅館を切り盛りする女性。シチュエーションは多彩に、ほぼふたりの対話のみで進行する中で、故人に加えて彼らの秘密や苦悩も明かされていくが、終盤に登場する“第三の女”をめぐる類型的エピソードが俗っぽい違和感をもたらし、優しい想像も織り交ぜつつ丹念に心を通わせ合ってきた男女の物語に水を差す。言いたいことを詰め込むあまり、作品全体のトーンに乱れが生じたように感じた。
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スーパー30 アーナンド先生の教室
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映画評論家
上島春彦
『ドラゴン桜』にもこのくらいソング&ダンス&銃撃アクションがあったらなあ、と思わざるを得ない。実話ベースといっても割とフィクションでしょ。だって最大の極悪人は当時の文部大臣ではないか。こういうところインド映画は大らかで凄い。日本だったらタダじゃすまないぞ。で、踊りだがボリウッド映画のクリシェより、予備校生が即席で演じる英語劇からぐっと盛り上がる集団(観客含む)パフォーマンスがさすが。私が日頃より尊敬する天才数学者ラマヌジャンの話もちらっと出る。
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映画執筆家
児玉美月
キャッチーな歌と踊りをふんだんに詰め込んだ本作は、そこだけ観るならば期待通りにインド映画を堪能させてくれるかもしれない。しかし観終わったあとに残るのは、空虚さだけである。つまるところこの私塾がなぜ驚異的な成果をあげることができたのか、その具体的な秘技そのものに対する驚きや衝撃がない。ただただ大雑把で大仰すぎるメロドラマ的プロットでこの映画の大半の時間がかさ増しされている。題材がきわめて魅力的である分、この調理の仕上がりには閉口するばかりだった。
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映画監督
宮崎大祐
いかんせん冗長ではあるが、親のカースト次第で残りの人生が見通せてしまうとか、キャッシュ・ルールズ・エヴリシングとか、ネットの中での世界は日々広がっているのに現実の世界はむしろ息苦しい場所になっているとか、英語を話せないと誰かと即日交換可とか、本作が描くインドの現在に似たような景色はいまやこの星のあらゆる場所に広がっている。この「インド化=中世化」を招いた記号資本主義を叩き潰さんと立ち上がった若者たちによる七色の咆哮におぼろげな未来を見た。
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空気殺人 TOXIC
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米文学・文化研究
冨塚亮平
いわゆる実録告発ものだが、「ダーク・ウォーターズ」などでは随所に見られた、ドキュメンタリーではない以上必須となるはずの語り口や撮影の工夫が十分に凝らされているようには思えず。最大の仕掛けは終盤のある種のどんでん返しだろうが、リアリティそっちのけでサプライズの効果を狙ったような演出が、実際の事件を扱った作品に対するものとして的確だったのかどうか。悪役のベタな人物像を含め、どこをどうエンタメとして肉付けするのかをめぐる判断にことごとく疑問が残った。
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