略歴 / Brief history
山口県下関市の生まれ。ふたりの異父兄とともに母親の手ひとつで育てられる。1966年に市立第一高校(現・県立下関中等教育学校)へ進学するが、2年生の時にアメリカ人と結婚していた叔母を頼って渡米。1年ほどで帰国して、東京都豊島区の豊南高校夜間部に編入し、69年3月に卒業する。テレビドラマのエキストラをするうちに岸田森の知遇を得たのがきっかけで、同年春、岸田らの劇団六月劇場の研究生になり、長兄の援助とアルバイトで生計を立てつつ、同劇団の裏方などをつとめる。70年に関東学院大学文学部に入学。やがて俳優志望の心を固め、71年4月、金子信雄主宰の劇団“新演劇人クラブ・マールイ”の演劇教室に入り、演技の勉強を始める。72年には文学座付属演劇研究所へ12期生として入所。同期に高橋洋子がいた。文学座の研究生に合格したあとで、大学は中退した。翌73年、日本テレビの人気刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で、3月放送の第35話『愛するものの叫び』に役所の職員役でテスト出演したのち、7月の第53話から“ジーパン刑事”の愛称を持つ若手刑事・柴田純役でレギュラー入りする。185cmの長身とワイルドな風貌で多くのファンを獲得。人気スターとしての第一歩を踏み出し、74年8月の第111話まで、約1年間出演した。その間、73年9月公開の松本正志監督「狼の紋章」において、高校を暴力で制圧して主人公と対峙する不良少年を好演し、鮮烈な映画デビューを果たす。翌74年には『太陽にほえろ!』で知り合った澤田幸弘監督の児童映画「ともだち」に小さい役で出演し、続く黒木和雄監督「竜馬暗殺」74では、坂本竜馬をつけ狙う薩摩藩士の配下でテロリストの右太に扮し、異様な不気味さを放って存在感を発揮する。竜馬を演じた原田芳雄をかねてより目標にしてきたこともあり、ここでの共演が機縁となって深い親交が始まる。さらに同年、澤田監督「あばよダチ公」に、チンピラ4人組のリーダー役で主演もする。76年、岡本明久監督「暴力教室」では暴力高校生と闘い抜く一匹狼的な教師を演じるが、単なる正義派教師ではなく、自らも鬱屈した怒りを抱える青年像を造形。同年の大洲済監督「ひとごろし」では剣豪を相手に、奇策によって仇討を全うする臆病な侍を快演し、人気・実力を備えた新人として広く知られるようになる。テレビドラマでは、TBS『赤い迷路』74~75で当時人気絶頂の山口百恵と共演。日本テレビ『俺たちの勲章』75~76では中村雅俊と若いはみ出し刑事のコンビを演じて、ますます人気が高まっていく中、予備校生との間で傷害事件を起こしたり取材記者とのトラブルが重なってマスコミに糾弾され、自己謹慎の生活を余儀なくされる。77年には日本テレビ『大都会PARTⅡ』に刑事・徳吉役でレギュラー出演し、それまでの獣のようなイメージに軽妙なユーモアを加えたことによって、成長を印象づける。同年の角川映画第2弾の佐藤純彌監督「人間の証明」では野心的な刑事・棟居に扮して、ジョージ・ケネディら実力派アメリカ人俳優も交えたオールスターキャストの中心をこなす。翌78年、村川透監督「最も危険な遊戯」で一匹狼の殺し屋・鳴海正平役に扮し、伸びやかなユーモア感あふれる世界観を、しなやかで強靭な精神かつアクションで表現。俳優としての個性と力量を存分に発揮する。“遊戯”シリーズ第2作の「殺人遊戯」78ではその鉱脈をさらに掘り下げて磨きをかけ、児玉進監督「乱れからくり」79、澤田監督「俺達に墓はない」79を経て、村川監督「蘇える金狼」79では昼間は平凡な会社員、夜は巨大資本乗っ取りを画策する犯罪者という二重人格性とアクション演技を融合させた複雑なキャラクターに挑む。日本テレビ『探偵物語』79ではアメリカ帰りの私立探偵を軽妙かつユーモラスに演じて、抜群の喜劇的センスを見せつける。この時に出会った脚本家・丸山昇一は、村川との“遊戯”シリーズ第3作「処刑遊戯」79で映画デビューを果たし、以後、数多くの作品で優作の協働者となった。翌80年の村川監督「野獣死すべし」では、主人公の伊達邦彦を痩身で臆病な死神のように演じ、陰影深い演技を披露。81年、初めて組んだ工藤栄一監督の「ヨコハマBJブルース」では自らのアイディアを基に、親友の死を解明しようとするブルース歌手を演じて、初めてスクリーンで歌声も披露した。同年の鈴木清順監督「陽炎座」ではそれまで得意としてきたアクション演技を封印し、生死のあわいを彷徨する大正時代の作家に扮して新境地を切り拓く。83年は、森田芳光監督「家族ゲーム」と根岸吉太郎監督「探偵物語」の2作でキネマ旬報賞、報知映画賞、ヨコハマ映画祭などの主演男優賞を受賞。前者はハードボイルドな家庭教師役、後者はヒロイン・薬師丸ひろ子のボディガードをつとめる私立探偵役で、ともにクールな感性と身体的特徴を活かして自信の作品とする。停滞を嫌い、新境地を目指すことを常としていた優作が次に挑んだのは、森田監督と再び組んでの夏目漱石原作「それから」85の映像化だった。親友の妻との愛に苦悩する高等遊民・長井大助を演じ、共演の小林薫と丁々発止の心理劇を展開する。翌86年、当初予定されていた監督の小池要之助が降板したため自らメガホンをとった「ア・ホーマンス」では、記憶喪失の謎の男・風(ふう)を演じつつ、プロデューサー的役割と演出まで担う。監督交代の際、脚本は優作自身が丸山昇一と協働して大幅に書き換えて演出に挑んだものの、作品評価は必ずしも高くなかった。しかし、映画的表現を追究する真摯な姿勢が窺える一作となったのは間違いない。88年、エミリー・ブロンテの小説を日本の中世に置き換えて映像化した吉田喜重監督「嵐が丘」では、原作の下男・ヒースクリフに当たる鬼丸に扮して、田中裕子演じるヒロイン・絹への想いを狂想的に深めていく若者を、繊細かつ大胆に演じた。続いて深作欣二監督による大正文士たちの群像劇「華の乱」88で、家庭があるヒロインを愛してしまう有島武郎の作家的苦悩と愛をパッショネイトに体現する。ベテラン監督と組んだこの2作品で、内面的演技と華やかなスターとしての存在感を見事に融合、一段とスケールアップすることに成功した。翌89年、リドリー・スコット監督によるアメリカ映画「ブラック・レイン」では、最終オーディションまで残った小林薫、根津甚八、萩原健一の中からスコットの鶴の一声で選ばれ、殺人犯として追われる凶暴なやくざ・佐藤を不気味な迫力で好演。待望のハリウッド進出を果たし、マイケル・ダグラスら海外スターと肩を並べて一歩も引けを取らない圧倒的な演技力で、大絶賛を浴びる。新たに国際的スターへの第一歩を踏み出し、優作のもとにはハリウッドからの出演オファーがさらに届いていたというが、それが叶うことはなかった。「ブラック・レイン」の撮影中、優作はすでに自分が癌に冒されていることを知っていたが延命治療を拒み、共演の安岡力也を除いた撮影関係者の誰にもその事実を知らせることなく、最後まで撮影を続けた。完成した同作の日本封切りからほぼ1カ月が過ぎた89年11月6日、膀胱癌の腰部転移のため死去。享年40歳。遺作は同年の日本テレビの単発ドラマ『華麗なる追跡』で、あまりに早すぎるカリスマの死だった。テレビドラマの出演作はほかに、フジテレビ『さらば浪人』76、『熱帯魚』83、TBS『腐食の構造』77、『あめゆきさん』79、『春が来た』82、日本テレビ『大追跡』78、『死の断崖』82、NHK『新・事件/ドクター・ストップ』82、『新・夢千代日記』『女殺油地獄』84、『追う男』86、テレビ朝日『断線』83など。ブルース歌手としての一面も持ち、78年からレコードをリリース、80年より全国ツアーも開始した。75年、“マールイ”のメンバーだった熊本美智子(現・松田美智子)と結婚。一女をもうけるが、81年に離婚し、83年、『探偵物語』で共演した女優の熊谷美由紀(現・松田美由紀)と再婚する。美由紀夫人との間に二男一女があり、長男・龍平、次男・翔太は、いずれも優作の死後に俳優としてデビューし、活躍を続けている。死後6年目の95年、松田のアイディアをもとに盟友・丸山昇一が執筆した脚本を集めた『松田優作+丸山昇一◎未発表シナリオ集』が刊行。また、生誕60年で没後20年の2009年には、妻・美由紀のプロデュース、御法川修監督による、出演映画・ドラマのフッテージ、CM、秘蔵写真、肉声のインタビュー音源などで構成されたドキュメンタリー「SOUL RED/松田優作」が公開されている。1989年11月6日、膀胱癌により逝去。享年40歳。