映画専門家レビュー一覧

  • 木樵

      • 脚本家、映画監督

        井上淳一

        いや、知らないものを知るのは楽しいから、そういう意味では面白いのだ。何の興味もなかった木樵という職業。切ることより、出す(運ぶ)ことの方が大変なこと。伐採により森を育てること。勉強になる。でも映画として何かが決定的に足りない。主人公が木を森から出す、途絶えそうなその技術をもう少し分かるように撮れなかったか。主人公にドラマがなければ、もう少し視野を広げ、総花的に林業の今昔を見せても良かったのでは。一番映画的なシーンが、ウリ坊の絞首刑では悲し過ぎる。

      • 日本経済新聞編集委員

        古賀重樹

        DX(デジタルトランスフォーメーション)がかまびすしいご時世に「技術の伝承」の意義を説くことはとても難しい。この映画はそんな困難に果敢に挑んでいる。山を荒らすことなく、木を一本一本切り倒し、架線を引いて運び出す。その手つきをひたすら撮ることで、仕事の意味を考えさせる。木材価格が30年前の4分の1となったというが、儲からなければやめる、とは簡単にいかない仕事もある。ノスタルジーではなく、今を生きる人々の生活がちゃんと映っているのもいい。

      • 映画評論家

        服部香穂里

        家業を継がず映画の道を選んだ監督の過去が本作の出発点であるのなら、木樵として憧れていた実父との関係性や、自身とは対照的に約半世紀も林業一筋の兄弟に惹かれる理由なども、もう少し明らかにするべきだったのでは。山を荒らさぬように架線を引き木材を運び出す工程は、準備段階も含めて圧巻だが、道路の移転先に決まり、70年も超然と根づいてきたメタセコイアにチェーンソーの刃を入れる場面以外は、似たような伐倒の光景が続き、映像的に単調に見せない工夫の必要性も感じた。

    • MONDAYS このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない

      • 脚本家、映画監督

        井上淳一

        手垢のついたタイムループもので手垢=同種の映画を前提に、そこからの脱出を描くなんて、なかなか憎いことやる。繰り返す日常を会社生活のメタファーにしたところも上手い。タイムループを直属の上司から順に分からせ、一番上まで持っていくのも会社組織を皮肉って面白い。繰り返す日常の見せ方にも工夫があるし、ほぼ知らなかった俳優陣もみな魅力的。しかし傑作になり損ねているのは登場人物の価値観が会社内に留まっているからか。会社なんてクソ喰らえ的な生き様が見たかった。

      • 日本経済新聞編集委員

        古賀重樹

        月曜の朝に泊まり明けばかり、仕事もせずに精神論をぶつ上司、ピラミッド型の硬直した組織……。時代遅れのクリシェをちりばめたクソ仕事ばかりの職場だが、タイムループからの脱出という共通の目標ができたことで、がぜん活気づく。「同じ場所で足踏みしているような人とは違うんです」という不遜な主人公も成長し、同僚の自己実現に力を貸す。旧来の日本型組織を茶化しつつも、否定せず、愛着をもって描いているところは面白い。いささか湿っぽく、映画的スリルには欠けるけれど。

      • 映画評論家

        服部香穂里

        あまたあるタイムループものの構造を分析しつつ換骨奪胎し、違う景色へ導かんとする意欲は買い。モブキャラの逆襲とばかりに、隅っこに追いやられがちな人物の密かな好アシストが地道に突破口を広げるにつれ、各々の個性や力量が発揮されていくさまも、主人公目線な同ジャンルのパロディ的面白みを醸す。ただ、ループのきっかけを生む部長の秘密には唐突な印象は否めず、広告業界のブラックさをさらに突き詰めるなど、ひとつのアイデアで押し切る潔さが欲しかった気もする。

    • 向田理髪店

      • 脚本家、映画監督

        井上淳一

        理髪店が舞台ということは、そこを軸に物語が展開していくと思うがそうではない。各エピソードが有機的に結びつかず、寂びれた炭鉱町も浮かび上がらない。「みんなが仲良く暮らせる偏見のない町作り」と夢語る息子はさっさと東京へ戻っていくが、せめて田舎に絶望してくれ。劇中のご当地ロケ映画の完成披露で、ツラマナイと声が上がるが、この映画をロケ地で見せて、そう言われなければいいけど。あ、その映画が賞獲った。あんなのじゃ獲れないし。その安易さがすべてを象徴している。

      • 日本経済新聞編集委員

        古賀重樹

        登場人物たちがこともなく「チクサワ」と言うので、どこのことかと思ったら「筑沢」という架空の町だった。寂れたとはいえそこそこの規模の市に見えるが、出てくる住民同士はほとんど知り合い。ファンタジーとしてはありなのかもしれないが、リアリティーは薄く、この町が具体像を結ばない。町こそが主役なのに。ただ「沈みゆく船だから、子どもたちを救いたい」という住民の声は、人口減少に悩む地方都市に住む人々の本音に違いない。そういう意味で真摯な町おこし映画。

      • 映画評論家

        服部香穂里

        刺激に乏しい過疎の町を、映画の撮影から詐欺事件の容疑者の潜伏まで、さまざまな騒動が襲う傍ら、それでも変わることのない、自虐もその裏返しに見える地元民の、あまのじゃくな郷土愛が脈打つ。いつ消えるか知れない町に留まり、その覚悟も胸に日々を過ごす現在の情景が、好演揃いのキャストに現地の方々も交え、既にノスタルジーの対象のごとく捉えられるエンディングは、その笑顔のまぶしさに、今日あるものも明日あるとは限らぬ示唆のようにも映り、複雑な感慨が湧く。

    • キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱

      • 映画評論家

        上島春彦

        もちろん偉大な女性科学者の伝記映画だが、原題を読めば分かるように放射能科学のその後、半世紀の推移も見据えた作りになっている。広島での原爆使用から戦後の核実験(高性能爆弾開発)、さらに旧ソ連体制下の原発事故まで。そこでは医療への活用という肯定的な側面も紹介されてはいるのだが、彼女が生きている時から人体への放射能の甚大な影響はとっくに知られていたというのが怖い。やっぱり知っててもやるのが科学者だ。愛人との生々しいスキャンダル事件も見どころたっぷり。

      • 映画執筆家

        児玉美月

        この伝記映画は男性中心的な科学界において功績を残した「キュリー夫人」ことマリの偉大さを過度に称えるのでもなく、女性差別を殊更に糾弾するのでもなく、彼女の人生そのものをありのまま映し出したいようである。だからこそラストにまで位置付けられている夫ピエールとのロマンティックな関係の濃密さは、いかに性差別による不当な処遇と彼への深い愛情の中で生きたかというマリのジレンマを裏付ける為に必然性があるともいえるが、この時代にそれが合致しているかは疑問が残る。

      • 映画監督

        宮崎大祐

        キュリー夫人というとそのキャッチーな名称と裏腹に、小学校の教室にある自伝本コーナーでも最後まで取り残されることが多い、なんとも地味な偉人だという印象がある。そんな印象を払拭するなにかを提供しようとキュリー夫人演ずるロザムンド・パイクは熱演をつづけるが、作者の政治思想を披瀝するためにとってつけたような説教くさいドラマと記号的に挿入される放射能がらみの歴史的事象がわれわれの意識を「核で敵国を脅しあう」進歩のない現実へと引き戻す。

    • スペンサー ダイアナの決意

      • 映画監督/脚本家

        いまおかしんじ

        ダイアナがいかれてる。行事は全部遅刻する。トイレで吐きまくる。旦那を睨みつける。苛立って周りに不満をぶつける。好きになれないキャラクターだ。自由にできない場所にいるんだからしょーがないでしょとツッコミを入れる。一人ぼっちで、何とか耐えようと小さな抵抗を続けるダイアナの孤独。もっともっと乱暴になればいいのにと思ってしまう。子ども達といるときだけ、彼女はのびのびと明るい。唯一味方になる女の人が、いきなり告白して、びっくりするダイアナが可愛かった。

      • 文筆家/俳優

        唾蓮みどり

        ポスタービジュアルから非常に気になっていた作品。これまでパブロ・ラライン監督作品における批評性に惹きつけられ、驚かされてきた。クリステン・スチュワート演じるダイアナの潤んで少し充血した瞳など、生身の生きた女性の姿に胸が締め付けられる。一方で、他の王室の人間たちのまるで幽霊のような気味の悪さときたら。異質な存在であるダイアナが「おかしい」とされるものの、見ていておかしいのはどちらか。人間でいるために闘うダイアナは美しい。ラストシーンも必見。

      • 映画批評家、東京都立大助教

        須藤健太郎

        クリスマス。衣裳も小道具もすべてが決められた食事会。夫曰く「決められたことを決められた通りの順番で行うこと」。つまりこれは演劇である。だが、緞帳は重く閉じられたままだ。ダイアナはそんな観客のいない舞台で演じられるお芝居に耐えられないわけだ。しかし、演劇空間を設定し、そこに「影響下の女」を配置する趣向は理解できるが、「こわれゆく女」(74)や「オープニング・ナイト」(77)とはやはり別物の赴き。カサヴェテスは何を成し遂げたのか。改めて考えている。

    • 背 吉増剛造×空間現代

      • 脚本家、映画監督

        井上淳一

        今号のドキュメンタリー2本を観て、久しぶりに映画とは何かを考えた。吉増剛造のライブを延々1時間見せるなんてテレビじゃ出来ないから、そういう意味じゃ映画なんだろう。しかし、七里さんが意図したように、限定されたアングルで捉えられたライブの背後に果たして映っていない何かはあったろうか。吉増の「詩とは何か」に答えられるだけの「映画とは何か」があったろうか。オンライン試写で観て、何度も寝て、その度に戻った。劇場だったらとゾッとする。お金出しては観ないけど。

      • 日本経済新聞編集委員

        古賀重樹

        吉増剛造の生原稿を読んだことがある。緑色のボールペンで書かれた、のたうつような細い字だった。その字を追うだけで、別世界に吸い込まれるような感覚に襲われた。この映画を見て、あの感覚を思い出した。詩人がガラスに何かを描きつけている。何を描いているのか、どんな表情なのか、よくわからない。通常のドキュメンタリーが追うようなものは、ろくに追っていない。映っているのは気配、音、そこから醸し出される不穏な何か。七里圭は言葉にならない何かを撮ろうとしている。

      • 映画評論家

        服部香穂里

        冒頭を飾る、ガラスに描かれたドローイングの塗料を丹念に洗浄していく作業から、流動的な水ものでもあるパフォーマンスに対する吉増氏のスタンスや、そこでのガラスの多彩な役割や重要性がさりげなく示され、続くライヴ鑑賞の手引きにもなっている。空間現代の演奏する姿を敢えてカメラの枠外に押しやることで、“背”の何たるかが強く意識されるとともに、ガラスを挟み自在に飛び交いぶつかり合う言葉と音が混然一体となり、“詩”の定義をもパワフルに粉砕し問い直す意欲作。

    • アメリカから来た少女

      • 米文学・文化研究

        冨塚亮平

        少女の母親への愛憎相半ばする複雑な感情が、二つの国と文化に引き裂かれた家族の状況と重ねられつつ、丁寧に掬い取られている。衣服や髪型の変化といったわかりやすい符牒に加え、家族間でどの言語を用いて会話するのかという選択が、その都度少女たちの家族に対するスタンスを反映することで、思春期の不安定な心理状況がさりげなくより重層的に観客へと伝わる効果を生んでいる。言葉ではやりとりできない馬との幻想的な触れ合いが、用いる言語の変化を生む契機となる演出も巧み。

      • 日本未公開映画上映・配給団体Gucchi's Free School主宰

        降矢聡

        本作は、母の病気の?末、そして母との和解の場となるはずの弁論大会の行方といった、物語としてハイライトに向かって積みあげていく語り口を拒否しているようだ。雄弁な語りよりも、言葉にならない表情を注視し、物事をはっきりと映し出すことよりも、より曖昧で、朧げな輪郭をアンバーな光によって描き出す。上映時間内に結論など出なくても良いとでもいうかのように、ゆっくりと表情や物事に寄り添う演出は、ありきたりなホームドラマと一線を画し、静けさと深い翳りを帯びる。

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