映画専門家レビュー一覧
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アイダよ、何処へ?
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米文学・文化研究
冨塚亮平
執筆現在のカブール空港の混乱とも似たサラエヴォの極限状態における、ある程度は国連のお役所対応が招いたとも言える惨劇をつぶさに追った本作は、個でも組織でもなく両者の関係にこそ焦点を当てることで、いわゆる人道的介入の限界をまざまざと観客に突きつける。自分勝手な人間ではないはずの元教師アイダは、なぜエゴをむき出しにして近親者を救おうとしたのか。当事者を純粋な被害者として描かないアプローチが、かえって問題の根深さを浮き彫りにすることに寄与している。
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日本未公開映画上映・配給団体Gucchi's Free School主宰
降矢聡
侵攻するセルビア人と国連保護軍のオランダ部隊、その狭間で助けを求めるボシュニャク人という構図を明確にする通訳の主人公が、さまざまな境界線を文字通り右往左往する。過度な緊張感を漲らせる主人公家族とそれに対する国連軍(と我々観客?)の冷ややかな反応、そして映画自体の控えめなサスペンス描写のギャップが妙。それぞれの立場で感じる緊張感のギャップを埋めようと足掻くほどに、つまりはそのバランス欠いた場こそが紛争地域のリアルなのだと感覚的に納得させる。
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文筆業
八幡橙
「ミッドナイト・トラベラー」にも感じたが、一言で「難民」と括っても、彼ら一人一人に顔があり、生活がある。戦後欧州最悪の大量虐殺事件に焦点を当てた本作も、まさに「顔」で語る映画だ。現地に紛れ込んだかのような凄まじい臨場感――砂っぽい空気、人いきれ、すえた匂い、汗のしたたりや虫の羽音、むせかえるようなたばこの煙――の中で、アイダの必死の形相を筆頭に、無数の顔が蠢く。近い過去に起こった事実の悲痛をラスト、絶望の果て、針孔からかすかに覗く光が救う。
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階段下は××する場所である
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
徹頭徹尾どうでもいい話が、特に前半は校内や図書館の代わり映えのしない室内のシチュエーションで、成り行きまかせのように進行していく学園ものなのだが、不思議な中毒性がある。原作は小説投稿サイトで連載された4つの短篇WEB小説とのことだが、結果的にヌーヴェルヴァーグ期の連作短篇映画のような趣も。主人公の女子高生の男言葉に象徴される物語のナラティブから、ポスターのビジュアルデザインまで、明確に既存のティーンムービーのオルタナティブであろうとしている。
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映画評論家
北川れい子
タイトルを見てR指定系の作品を想像したら、何のことはない、女子上位の青春ミステリーで、可愛げもある。雨の日に傘を貸してくれた下級生男子が気になった高三女子が、その男子につきまとう過程で、次々と謎めいた事件に出会い、二人でその謎を解くという話。場面ごとに別の映像を入れたり、黒画面を使ったりの映像演出はいささか鼻につくが、若い俳優たちの媚びない演技は好ましい。保健室の先生の存在が小気味よく、シンプルな小品だが、神谷監督、楽しみました。
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映画文筆系フリーライター
千浦僚
邦画秋のミステリ祭り。新本格ミステリの姪っ子甥っ子のような学園探偵もの。謎が人物らの日常に合って無理なく楽しい。いや無理無理だらけの大風呂敷の過激さも楽しいし、映画はそういうことをやるべきだとも思うが、本作主人公らの佇まいや律儀な口調には魅了された。山形の風土も良い。ただし五月蝿いことを言うようだが最終話だけはいただけない。相手の失敗を望むこと、男女逆ならどうか、などが。地方映画の設定の真の難しさは自己実現と上京に関する部分だと気づく。
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ミッドナイト・トラベラー
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米文学・文化研究
冨塚亮平
命がけの過酷な国外逃亡の道行きは、しかしスリルやサスペンスに満ちてもいる。そもそも自らの映画制作を契機として祖国を追われることとなった監督は、悲惨な現実のドキュメントと虚構的な魅力の間で揺れる自らの心情を素直に吐露しつつ、膨大な素材を面白く「も」観られる形に再構成した。なかでも娘がスマホでマイケル・ジャクソン〈ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス〉の動画を再生しながら踊る場面は、幾重にも重なる象徴性が圧巻。タリバンが再び政権を掌握した今こそ必見。
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日本未公開映画上映・配給団体Gucchi's Free School主宰
降矢聡
娘の一人が「退屈だ」と駄々をこねる瞬間が物語っているように、決して壮絶な出来事が写っているわけではない。むしろこの映画は退屈で不毛な時間こそを記録する。ゆえに難民家族の現実がたしかに写っているようにも思える。だから、悲劇を心のどこかで捉えたくなってしまうと、映画作家自らが業を吐露し自己批判をする場面ほど本作に似つかわしくないものもない。それより無意識の女性蔑視が透けて見える何気ない日常のシーンがタリバンが政権を奪取した現在、ひときわ心に残る。
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文筆業
八幡橙
終幕、長女が「絶対に思い出したくない」と語るように、これはある一家の決死の旅の実録だ。だが、真の地獄は省略された日々に主に押し込まれ、本篇の多くは笑顔で埋められる。自転車、ローラースケート、明白な自己主張……旅の途中、妻と娘は、女性が不自由を強いられてきたあれこれに挑む。泣く日。笑う日。海を見てはしゃぎ、よその女性への夫の軽口に嫉妬する。逃亡に内包された「人の営み」が、「人生」が、ここにある。アフガン激震の今、彼らの今後に思いを馳せずにおれない。
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先生、私の隣に座っていただけませんか?
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脚本家、映画監督
井上淳一
これはシナリオではなくストーリーですと新藤兼人に言ったのは溝口健二だが、本作にはお話しかない。不倫する人される人の深淵も描かず、書けない苦悩書ける人への嫉妬にも興味がない。血の通った人間がどこにもいないのだ。小さな話をより小さく。あるのは昨今の不倫絶対許すまじの価値観だけ。自分だって不倫するかもしれないし、書けなくなるかもしれないという低い視点こそ、エンタメには必要なのでは。ハリウッドはそうだけど。主演二人、なぜこの脚本で出ようと思ったのか。
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日本経済新聞編集委員
古賀重樹
夫と編集者の不倫に気付いた女性漫画家がその経緯を作品に描く。さらに自分の不倫まで描く。その草稿を夫が盗み見て困惑する。筋立ては確かに面白い。どこまで現実なのか、どこから虚構なのか。見ている観客にもわからないし、どんでん返しも待っている。それなのに見ていてどうしてこんなにハラハラ感が薄いのだろう。回想シーンのせいか、説明的なショットのせいか、サスペンスフルな緊張感に欠けるのだ。ニコニコしながら夫に復讐する黒木華は、はまり役。辛口の終幕には納得。
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浜の朝日の嘘つきどもと
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脚本家、映画監督
井上淳一
福島と名画座(ミニシアター?)。なんというタイムリーな企画。しかし、主人公と恩師の回想に比べて、映画館の話が弱過ぎる。街の人々のステレオタイプな変わり身。批評だとしてもあんまりでは。福島の人で3・11以後を「大震災から」と言う人を見たことがない。みんな、「原発事故から」だ。何か忖度でもあったのか。震災、コロナと現実を取り込むなら、マスクをさせないといけないのでは。ハンパな現実とのコミットはかえって見苦しいと自戒を込めて。地方の単館の現状認識も甘い。
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日本経済新聞編集委員
古賀重樹
不器用な人物がじたばた生きること、家族や血縁なんて幻想に過ぎないこと、孤独な魂が相寄ること。タナダユキの映画の底流にある人生観がそのまま提示され、主観がそのまま語られる。映画への愛もそうだろう。南相馬の映画館・朝日座という強力な磁場が、作り手の素の部分を引き出したのか。だからこれは純然たるファンタジーなのだ。ご当地映画に東日本大震災から10年たった被災地の現実も希望も見えないことに、この国の無策を思い知り愕然としたのは私だけだろうか。
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スパイラル ソウ オールリセット
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
拷問の描写がエグい。こんなんよく考えつくよなと感心した。その残忍さに、犯人は相当狂ったやつだと予想できる。主人公の警察官は、なかなか犯人にたどり着けない。その間にもどんどん人が死ぬ。数々の拷問を見せるのが目的かのように、その様子が執拗に描かれる。実にグロい。気持ち悪い。この描写のエグさはマネできないと思う。犯人が分かって、その理由が分かって、なんか納得いかなかった。犯人がそんな狂った奴に見えなかった。もっとわけ分かんないやつだと良かった。
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文筆家/女優
睡蓮みどり
映画というか、テレビドラマを観ているという印象だった。肉体的にも精神的にも極限まで痛めつける、あんなにすごい拷問&殺人マシーンを作る才能があるならば、殺人なんてやってる場合じゃないよといいたくなる。犯人に変態性が足りないというか。残虐な「警官殺し」の動機も含めて既視感があった。これまで「ソウ」シリーズをちゃんと追ってきていないのにもかかわらず、ストーリーがなぜか予想できてしまう。しかし過去に8作もあるシリーズの9作目ってすごい人気ぶり。
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映画批評家、東京都立大助教
須藤健太郎
この種の映画は最後の「答え合わせ」に顕著だが、フラッシュバックで成り立っている。犯人の告白しかり、それを聞いて数々の伏線を思い出す主人公しかり。回想が映像となり、映像はかならず誰かに帰属させられる。そういう意味では、映像の主体を疑わない素朴さがすべてを支える台座であり、そのあたりにどう揺さぶりをかけるかが焦点のひとつ。だが、フィッチの虐殺場面がなぜかジークの回想(幻視?)のように挿入される点に、本作の要領の悪さが露呈している。たぶん凡ミスだ。
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ブライズ・スピリット 夫をシェアしたくはありません!
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
幽霊が出てくると、ウエットなものを想像してしまいがちだけど(未練を残して死んだ幽霊の願いをかなえる話とか)、違った。かなりドライな幽霊でびっくりした。元妻の幽霊は気が強くて、主人公の今の妻も気が強くて、女二人でバチバチ火花を散らす。間に入った主人公の作家はおろおろするばかり。いつの世も男は情けなく、女は強い。ひたすらセコい男が哀れでおかしかった。元妻の幽霊と昔のようにバーへ行き、見つめ合うシーンがちょっとだけウエットで、ホッとした。
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文筆家/女優
睡蓮みどり
アール・デコ調のインテリアや30年代のファッション、英国のアンティーク小物に至るまで、幽霊になってこの世界に迷いこみたいと思わせるほど豪華でうっとり。一方、なぜこの時代に40年代の有名な舞台を映画化しようとしたのか疑問。このコメディを始終楽しみながら観ていたけれど新作としては物足りない。霊能者役のジュディ・デンチはきっと演じるのが楽しかっただろうな。ジュディだけでなく、元妻役のレスリー・マン、現妻役のアイラ・フィッシャーなど女優が揃って魅力的。
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映画批評家、東京都立大助教
須藤健太郎
レスリー・マンが主演級の配役だと知り、見る前は★5付ける気満々だったが、彼女が出てくるまでに30分もかかるのである。この一点からわかるように、この映画はコメディのくせしてテンポが悪いのだ。車が崖から海へと飛び落ちるロングショットに組み合わされるレスリー・マンの「ウプス」は感嘆する素晴らしさだったが、それをきっかけに始まるラストの展開にももたつきが残る。「陽気な幽霊」の方がまだしも小気味良い。ちなみにケイ・ハモンドの口からは「オウ、オウ、オウ」。
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ミス・マルクス
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映画評論家
上島春彦
ここまでダメダメちゃんを主人公にした映画は空前絶後。それがカール・マルクスの娘というのがミソである。有能な進歩派論客である彼女の苦難の生き方を辿る。しかし同時に彼女は親父の思想的虐待の被害者と言うしかない。こういう女ほどダメンズに引っかかる、の法則が完璧に当てはまる例だ。よくある話で少しも謎じゃない。それより興味深いのは、彼女の誤った選択が彼女の熟慮の末の選択であるかのように自分自身は思いたがっていること。親父の隠し子の一件も描かれていて貴重。
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