映画専門家レビュー一覧
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リトル・ワンダーズ
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映画監督
清原惟
病気の母親のために、パイの材料を探す一日の冒険譚。妙にませた子どもたち三人組のキャラクターが愛おしい。特にリーダー的存在の女の子の、いざというところできめてくれるクールさにしびれる。怪しい館、日本製の不思議なゲーム機、青い玉のおもちゃの銃など、美術のアイデアも楽しい。現実味に欠ける設定や展開でありながらも、それがただのファンタジーで済まされるわけではないのは、子どもたちの存在感によってだろうか。彼女たちの間になぜだか突然生まれた友情には胸を打たれた。
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編集者、映画批評家
高崎俊夫
「スタンド・バイ・ミー」のような牧歌的で多幸感溢れるキッズ・ムーヴィーと思いきや違った。悪ガキ三人組が病気の母親が大好物のブルーベリーパイを作るのに必要な玉子を横取りした男を追い、謎の魔女集団と対決する羽目に――。逸脱を狙ったプロットは行き当たりばったりで、リアルな描写とファンタジーが奇妙に同居したまま齟齬を来している印象が否めない。2組に共通するのは父親が不在の母子家庭であるということだが、その描き方も中途半端でまったく掘り下げられていない。
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映画批評・編集
渡部幻
70~80年代に子供たちの冒険映画をたくさん観た。しかし夢中にならなかったのは、仲間との“本物の冒険”の方が楽しかったからだ。そして、あれから何十年を経て観たこの映画は楽しんだ。新鋭監督が描き上げた現代アメリカのユタ州は、美しく広大で、ノスタルジックなパステル画。しかしウェス・アンダーソン映画よりも生身の身体性が豊かである。大人と比べて子供時代の1日はとても長い。だからこそ、たくさんの経験に挑戦したし、勇敢にもなれた。そうした世代を超えた実感を思い出させてくれる秀作。
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グレース
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文筆業
奈々村久生
一台の車で父親と生活を共にする年頃の少女。各地を転々とする日々では同世代や外部の誰かと安定した人間関係を築くことができない。自分で買った下着をトイレで身につけ、着替えも入浴もプライバシーはなく、夜は狭い車内に父親と並んで眠る。その歪さと貧困は今の日本社会でも容易に想像できてしまう。脱出を求めて頼った男性もまた救いにはならない。男性中心社会への絶望と限界。そして辿り着いた海。「大人は判ってくれない」の少年から半世紀以上、少女はようやく同じ場所に立つ。
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アダルトビデオ監督
二村ヒトシ
こういう静かな、説明が少ない、監督が独自のことをやろうとしてるまじめな映画に、たいていセックスがでてくるのはなぜなのか。われわれ都市生活者はセックスにまったくありつけない(または求めない)か、やりすぎてセックスの意味を失ってるかで、映画(他人の、意味ある人生)とAV(僕が撮ったのも絶対入ってると思う)をかかえ荒野をゆく父と娘は野生動物のようにセックスとでくわすわけだが、セックスに縁のない人はこの映画をどう観ればいいのか。荒涼とした風景が、とてもよかった。
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映画評論家
真魚八重子
草も生えないゴツゴツとした暗い岩場から始まり、オンボロ車に寝泊まりする父と娘の侘しい日常を長回しで追っていく。二人旅が普段の生活となれば停滞も生まれ、移動で眺めが変わっても寂寥感が立ち込める。感情的になるのは男盛りの父の性的な問題で、娘は母への裏切りとして怒りを露わにする。娘の外泊は父を不安にさせるための同害報復だが、父の人肌恋しさも娘はどこかで理解していると思う。静謐な演出は些か退屈さも招きつつ、野外上映に向けて砂を巻き上げ疾走する車の群れのショットなど印象深い。
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ジョイランド わたしの願い
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俳優
小川あん
これは……ミヒャエル・ハネケ「ハッピーエンド」との類似性を感じる。タイトル、そして内容の逆転。一つの問題から派生して、家族が最悪の事態に陥る。最後になってやっと周囲が正気を取り戻す時間感覚。同じように、本作も見て取れた。この構成を描き切るのは難しい。主人公の妻が自殺に追いやられた要因を、正確に説明する必要があり、家父長制、トランスジェンダーの要素は慎重に描写しなければならない。「ジョイランド」はバッチリだった。鋭く、重厚感のある作品になっている。
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翻訳者、映画批評
篠儀直子
監督がずっと温めていた題材だけに、ややテーマを盛りこみすぎな気もするが、それでもなお喚起力に満ちた力強い映画。トランスジェンダー女性との出会いによって、自分の真の姿に気づかされていく夫。「女」の枠に閉じこめられまいともがきはじめる妻。文化が違えば先進的なベストカップルとして賞賛されるだろうふたりが、強力な男尊女卑社会の圧力のもと、苦悩するさまが痛々しい。そしてもちろん苦悩するのは彼らだけではない。場面の息づかいをとらえる撮影も、洗練されたタッチの演出も魅力的。
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編集者/東北芸術工科大学教授
菅付雅信
パキスタンの新鋭監督の初長篇。大都市ラホールに暮らす伝統を重んじる9人家族の失業中の次男が就活で紹介されたシアターでトランスジェンダー女性と出会い、惹かれていく。第三世界LGBTQモノは性的偏見にのみフォーカスを当てがちだが、本作は家族のキャラクター描写が巧みで、次男が保守的価値観と性的多様性の価値観の間で揺れ動く様子が丁寧に描かれる。撮影や編集もモダンで、地球の遠くの国を舞台にしながら、私たちと共感・共有できる物語に仕上がっている。この監督、期待大。
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ソウ X
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俳優
小川あん
学生時代に「『ソウ』見た? グロいよね?」と話題になっていて、興味本位で見てたあの頃。そして、久しぶりに見て……今はちょっと無理。この不快感をあえて感じたいとは思わない。しかも、いつのまにか首謀者が明かされていて、報復としてあの悪夢の実行をする。陳腐な復讐劇としてしか見られないし、首謀者のサイコパスお爺ちゃんの悲哀な姿など見たくない。身元が明かされないでいたほうが良かったと思う。そのほうが、スリルを守れた。私がお母さんになったら絶対子どもに見せたくない一本。
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翻訳者、映画批評
篠儀直子
後半セシリアが、ジョン・クレイマーの正体を知っていたと言い出すので、「だったらその時点で『こいつに手を出すのはやめよう』と判断しないか?」と思ったのだけど、そういうことを考えて観てはいけない。ゴア・スペクタクルだけでなく、意外にもドラマとしてちゃんとしている。心理とかそもそも必要ないとか、ジグソウはこんなキャラクターであってほしくないという意見もあるだろうが、「命をもてあそぶ」ことへの正当な怒りが表現されていて、シリーズから取り出してこれ単体で観ても悪くない。
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編集者/東北芸術工科大学教授
菅付雅信
連続ゲーム殺人を描く「ソウ」シリーズ最新作。末期癌で余命宣告を受けた主人公の老人が実験治療を試すためにメキシコへ。しかしそれは詐欺で、彼は詐欺師たちに報復する。あっさり騙される主人公にも、彼の報復に簡単に絡み取られる悪役たちにもまったく感情移入できないまま、映画はおびただしい出血量の殺人ポルノと化す。シナリオにも撮影にも創意工夫は見られず、続篇を予感させる結末にもうんざり。映画の面白さよりも露悪的残酷さに奉仕する製作姿勢に告げたい、「ゲームはもうおしまい」だと。
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破墓/パミョ
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映画監督
清原惟
先祖の怨念を晴らすために改葬を行う呪術師(?)たちのバトル映画。日本でいうところの陰陽師みたいだなと思いつつ、ホラー映画でありながらも仰々しい演出に笑ってしまう場面もあった。埋葬という馴染み深い題材でリアリティを担保しながらも、日本の鬼が出てきたりと突拍子もない展開をしていく。そこから日本の植民地時代の話も混ざりつつ、国家や民族といった大きな枠組みの話になっていっているのが、怖くもあり面白い。主人公の女性の鋭い視線が、このとんでもない設定を支えている。
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編集者、映画批評家
高崎俊夫
この映画はいわば二段構えになっていて、前半のエピソードが圧倒的に面白い。在米の富豪コリアン家族からの依頼で跡継ぎが代々謎の病気にかかっており、お祓いと墓の掘り起こしで多額の報酬を得る風水師、葬儀師の四人組がいかがわしくてよい。巫女が憑依して踊り狂うシーンなど絶品だった。ところが後半は一転、日帝が朝鮮半島の絆を断ち切るために刺した呪いの釘などという大法螺吹きのテーマが朗々と謳い上げられ、異形の歴史オカルトみたいな収拾がつかない事態になってしまった。
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映画批評・編集
渡部幻
チャン・ジェヒョンのオカルト・スリラー。主要人物が自らを紹介していく快調な冒頭でまず、前作「サバハ」からの熟達を感じられる。前代未聞の悪地に佇む墓の改葬依頼。不審な点が多い。40年間、地官を務めてきたチェ・ミンシクはチームに警告する。ここは悪地の中の悪地で、関われば全員が命を落とすであろうと。あらすじの解説は野暮だろう。ぐいぐい引き込む演出と役者陣の卓越した演技に導かれながら、驚きの展開に身を任せた方がよい。本国での大ヒットもうなずけるエンタテインメントだと思う。
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ピアニストを待ちながら
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文筆家
和泉萌香
自動扉は開閉するのに出ていくことはできない虜囚たる我々はもう、不条理文学談議をしている場合でも、神など待っている場合でもない。新しい図書館における、内輪的なぐるぐるとした遊戯は悲しくも「現代的」と言ってしまえるのかもしれない。「去年マリエンバートで」「世界の全ての記憶」といったレネ的不在と記憶の、そして「皆殺しの天使」的囚われの物語だが、暗示的な世界に対してやや雄弁な説明的なセリフが多いせいか、生きているものと死せるもののあわいにある官能性に欠ける。
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フランス文学者
谷昌親
題名が示すように、ベケットの戯曲が下敷きにされており、芝居の上演に向けて稽古をしている人物たちが登場する。物語の展開も不条理劇風で、総じて、きわめて演劇的な作品と言えるだろう。しかしそれでいて、夜の暗闇を身にまとうように佇む建物をとらえた冒頭から、ひとつひとつのショットの力、そしてショットとショットの連なりが生む力が伝わってくる。このふたつの力が交わるなかで作り出される独特の空間や人物の奇妙な存在感は、映画的表現のみごとな達成にほかならない。
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映画評論家
吉田広明
ピアニストは到来すべき芸術=「詩」であり、やがて来る「死」でもあるゆえ、本作は芸術とは、生きるとは何かを問う原理論的作品としての深みを得る。しかし「原理」を言うならば、舞台上の現存に縛られる演劇でこそ「不在」は逆説的に強い存在感を放つが、映画の場合、「在」っても真偽不明のいかがわしい「映像」、その嘘の力こそ映画の面目では、という疑問も浮かばないではいない。とはいえ、与えられた機会を生かして自身の映画に仕上げた力業は、一つの範例たりえよう。
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はじまりの日
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文筆家
和泉萌香
主人公と、物語を進行させるためだけに存在しているような都合のいい登場人物たちや台詞にくわえ、肝心の二人が打ち解けていく様子がまるでダイジェストで、現実の強度がゆるいために、夢のミュージカルシーンがひどく浮いて感じられてしまう。男が(彼らに名前を与えないのも効果的と思えないが)薬物に走ってしまったのにはさまざまな葛藤があったのだろうと想像するも、娘との和解シーンもとってつけたよう。歌声はもちろん素晴らしいのだが、ドビュッシーの言葉の引用も的外れでは。
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フランス文学者
谷昌親
中村耕一、そしてとりわけ遥海の歌がすばらしいし、ミュージカルシーンの華やかさにも目を奪われる。だがそうした音楽関係の要素を取り除いてみると、劇映画としてのあり方に物足りなさを感じてしまう。主人公の二人が隣人で、職場も同じという偶然があっても悪くはないが、それが映画的に活かされているかというと疑問だし、なにより二人が古ぼけたアパートに流れ着いているという設定が重要であるのに、そのロケーションがほとんど書き割りのようになってしまっているのが残念だ。
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