映画専門家レビュー一覧
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ジュリエッタ
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映画系文筆業
奈々村久生
母と娘のねじれた関係を描きながら、娘は行方不明になっており、とり残された母が感情のやり取りをすることはできない。物語は唐突に、安直とも思える解決を迎えるが、二人は最初から最後まで断絶されている。どんなに言葉をつないでも真実は映らない。母娘のドラマに浸りそうになろうものならギリギリでバッサリ断ち切られる。キャリアの集大成となる名作になってもおかしくないテーマと技術を持ちながらこの突き放し方は敢えての仕業か。もしそうならこういう円熟の仕方もあるものか。
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TVプロデューサー
山口剛
アルモドバルの描く女性たちは何故かくも魅力的なのだろう。ヒロインを演じる二人はもとより、夫の女友達、母親、頑固な家政婦などに至るまでみな忘れがたい印象を残す。テーマは人間の責罪感や死であり、暗く深刻なものだが、卓抜な人物造型とストーリーテリングで心地よい緊張感が続く。A・マンローの短篇からの自在な脚色、鮮やかな色彩感覚と選び抜かれた小道具などの美術、印象的な音楽などいつもながらアルモドバルの多才ぶりに感じ入る。本作が20作目、まさに円熟の境地だ。
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小さな園の大きな奇跡
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翻訳家
篠儀直子
展開は全部予想がつくし、伴奏音楽の使い方もあまりに型どおりなのだが、そういうことを言うのが野暮なように思えてくる映画。幼稚園存続への努力以上に、貧困のなかですさんでいた大人たちが生き生きとした表情を取り戻していく過程に感動させられる。穏やかなルイス・クーも味わい深く、美術も撮影も丁寧。しかしラストのあれはどうしてテロップで処理してしまったんだろう。あと、実話がそうだったからなんだろうとは思うけど、やはり「なぜギロチンなのか」と思わずにいられず。
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映画監督
内藤誠
観光ではなじみのない現在の香港で生きる人たちがリアルに描かれているのが新鮮だった。幼稚園の園長を演じるミリアム・ヨンと彼女を取り巻く子どもたちの魅力による作品だが、冒頭、ヨンが勤める有名幼稚園へ、若いエリート層の夫婦が子供のことで文句をつけにくる。その不快さの演出が巧妙だ。我慢できないヨンは廃園寸前の幼稚園にみずから志願して勤務する。実話に基づくというが、地方との貧富の格差はすさまじい。夫ルイス・クーの理解も得て映画はハッピーに終わるけれども。
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ライター
平田裕介
経済状況や親の不和を筆頭に、園児たちを取り巻く相当にヘヴィそうな問題が、ヒロインの家庭訪問一発でほぼ解消してしまう。また、園児もそうした環境に置かれているにもかかわらず非常に良い子で、あまり大変なムードを感じられず。ただし、そんな彼女の奮闘と交互にギロチン台の実物大模型作成に燃える夫ルイス・クーの姿を映すという、どうかしているセンスは買いたいところ。入院した彼女を励まそうと、夫が完成させたギロチン台を見せに持ってくるシーンは本当にどうかしている。
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いきなり先生になったボクが彼女に恋をした
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評論家
上野昻志
いや、タイトルだけ目にしたときは、また、しょうもない恋愛モノか、と半分逃げ腰になったのだが……主人公が沖縄に行ったあたりから、それなりに楽しく見られた。頼りなげなボクを演じるイェソンは、さすが韓国の人気グループのリード・ボーカルだけあって、『勝手にしやがれ』を熱唱するところなどいいし、彼を韓国語の教師にした学院の二人組と三人で、韓国の社長を案内する佐々木希扮するさくらに、遠隔から韓国語を伝えながら追っかける一連など、コミカルに弾んでいて悪くない。
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映画評論家
上島春彦
最近の希さんは余計な脂が抜けてとても良い、と私は思っている。ただ世間の評価は逆なので困ってしまうよ。沖縄は台湾からの旅行者であふれていると聞いたが、これは韓国人が一方の主役。いずれにせよアジアとの接触地点としての沖縄というのは多分二十一世紀現在、興味深い話題の一つ。彼が実はいいところのぼんぼん、という設定だけは冒頭から分かるものの、話のネタは割れないから楽しく見られた。バーのマスターが彼女を助けるために妙な発明品を持ち出すあたりから面白くなる。
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映画評論家
モルモット吉田
魅力に欠ける題だが朝原雄三だけあって演出で見せ切る。パターン通りの再会や別れのシーンをどんどん省略するのは小気味いいが、米軍機や雇用問題など沖縄の現実をさりげなく提示することも忘れない。だが、韓国語も覚束ないヒロインに商談相手の接待と通訳を任せ、挙句に強姦されそうになるパワハラ&セクハラを古めかしい笑いに利用するのは無頓着。無線を使った通訳作戦を活かすため、かなり喋ることができたはずのヒロインが日常会話までロクに分からなくなるのはご都合主義。
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ぼくのおじさん
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評論家
上野昻志
やっぱり、この役は松田龍平以外にないと納得する。怠け者で屁理屈を捏ねる“インテリぼんくら”というキャラは、下手にやると嫌味になる危うさがあるのだが、そこでの力加減が抜群にうまいのだ。たんに世俗に疎くて飄々としているというのではない。俗っ気もありながら、抜けてもいるし、はにかみもある。その辺のあわいを淡々と演じるのは易しいことではない。山下監督も、そのあたりを生かすテンポをよく心得ているようだが、前半、おじさんのキャラを見せていくくだりが、ややダレる。
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映画評論家
上島春彦
松田龍平の「おじさん」演技もその兄一家も良いのに、ハワイに行ったら物語が散漫というかありがちな線に落ち着いてしまい、星を減らした。続篇で「ぼく」の担任女教師戸田とおじさんの恋物語を展開してもらいたい。「ぼく」が恋のキューピッドになるわけね。じゃないと国内キャストがあまりにもったいない。原作が北杜夫というのが意外で、かつ面白い。私の世代だと遠藤周作と並び、北さんが憧れの作家なのにこういう小説を知らなかった。得した気分ではあるがそれ以上ではないかも。
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映画評論家
モルモット吉田
「もらとりあむタマ子」は計算されたゆるさが魅力だったが、今回は最初から脚本や演出までゆるくなっているのではないか。毒気のない予定調和と女優陣の大仰な演技に2時間近く付き合うのは辛い。松田の茫洋とした雰囲気は好ましいが、彼が牛丼屋で紅生姜を取る時に瓶の蓋を下にしたままカウンターに直置きして丼をかきこむので飛沫が瓶に入るとか、哲学者として授業をする割に自室に積まれた本がいつまで経っても紐で縛られたままだったりと細部のゆるさがキャラ造形に繋がらない。
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秋の理由
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評論家
上野昻志
ある芸術家の肖像、という印象。といって、それはたんに佐野和宏演じる、書けなくなった小説家の肖像という意味ではない。むろん物語的には、それが前面にあるのだが、それ以上に、詩人にして監督の福間健二自身の肖像という印象が画面から匂い立つ。たとえば、何度か現れる、地面に散り敷いた枯れ葉を写したショット。それを見ると、ああ監督はこのような画を見たくて撮ったのだな、と思う。いわば、画面に反転した自画像と見えるのだが、だから面白いとはならないのだ。
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映画評論家
上島春彦
編集者と作家、二人の男のずるずるの関係と、一人の女がその間で揺れるという物語はありがちか、と最初は思った。しかし中身は濃かった。三人が互いに依存し合って、それも悪いことばかりじゃないという感じ、これが深い。書けない作家がしかも言葉を口に出せなくなって久しい、という設定に現実がリンクする。ともあれ伊藤も佐野ももはや「いい歳」で、かつ周囲からそれなりに尊敬もされているというのが良い。というか、かくありたい。不思議なのは終わり方で、あれは幻想なのか。
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映画評論家
モルモット吉田
同世代の男たちを迎えて福間映画が変貌を遂げたと思わせつつ、これまで同様、女たちも実に魅力的だ。普遍的な三角関係の物語の中で心地よい風が吹き抜け、空や土を眺めて季節を感じる〈いいにおいのする映画〉でもある。声を失くした佐野がボードに文字を書き、それを観客が読む間が言葉と映画を結ぶ時間になる。一方、趣里は山戸結希の詩の朗読イベントでも見せた才を福間の詩でも発揮し、言葉と声を結ぶ。現在の多くの映画から抜け落ちてしまったものを見つけた気分になる作品だ。
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デスノート Light up the NEW world
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映画評論家
北川れい子
前作から10年――。監督、脚本家の変更もさることながら、内容に合わせて一新されたメインキャストに世帯交代を痛感する。いや、前2作の藤原竜也(今回もチラッと出てくる)も松山ケンイチもバリバリの現役だが、若手3人が並んだ今回は、デスノートのカラクリより、3人のキャラクターの方に関心が向いたりも。実際、デスノートが6冊に増えた分、話の風呂敷が広がりすぎて、途中、どうでもいいやの気分に。映画がムキになっているわりには、そのムキさがこちらに届かないのが残念。
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
試写の際に、作品世界の設定にも沿ったネタっぽい感じで、作品内容への秘密保持契約書なるものに署名を求められ、してしまったことの気味悪さが映画以上に大きくなってきた。評することを“デスノート”した。ゆえに私は本欄において、この作品に対しては“降りる”。パス。宣伝側が紹介のされかたに希望や注文があるのはわかるが、もはや変なところにまで来ている。そもそもここに取り上げられたとしても客の入りにさして変化あるまい。やめればよろしい。私も本欄辞めたい。
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映画評論家
松崎健夫
某小説が直木賞の選考において「死神が全能であるのは疑問」と評価され、同時に「死神の描き方にリアリティがない」との要旨でも評されたことがあった。本作の死神は全能でないが、同時にリアリティもない。しかしその有無は、ストーリーの面白さに直接関係が無いように思える。むしろ“デスノート”を権力のメタファーとした“デスノート大喜利”という原作への愛こそが面白くさせている要因。そして、東出昌大、池松壮亮、菅田将暉、各々異なる男の個性も本作の魅力を高めている。
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湯を沸かすほどの熱い愛
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映画評論家
北川れい子
ひねりのある人情味あふれた脚本と、細部にさりげない遊びを取り入れた演出。中野量太監督に思わず駆け寄りたくなるヒューマン・コメディーの傑作だ。えっ? コメディーじゃないだろうって? 確かに死に往く母親のこころ配りということでは「バースデーカード」の母親に設定は似ているし、痛いエピソードもある。けれどもその痛さをしっかり蹴飛ばすことになる伏線が巧みに用意され、気がついたら泣き笑い。そして宮沢りえ、杉咲花以下、完璧の演技陣。いっそ全員に駆け寄りたい!!
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
この欄をやるだけで主要登場人物が余命いくばくもないという映画を一年間に何十本も観る。それら日本映画の企画の貧困を許せない気分。死ね! 生を軽んじる安直な映画よ……しかし! 本作は良かった。主人公の死の予定が出発点だとか、ド根性メロドラマとして色々手を尽くしているのが悪くない。また、母もの映画とは、下手すると血縁内の執着というだけの話だが、本作は宮沢りえの設定に効果的なひねりを加えている。愛とは天与のものではなく闘いであった!
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映画評論家
松崎健夫
本作で思わず涙腺が緩むのは、〈死〉が悲しいからではない。厳しい現実に直面しながらも、〈生きる〉ことを諦めない姿に心動かされるのである。“人生は厳しさの連続である”を前提にしながら、時に厳しい選択を強いることで問題を解決させる姿。中野量太監督はそれを、忍び寄る〈死〉の影があるからこその優しさに変換させている。本作は煙突に始まり煙突に終わる。立ち上る煙の様子に〈生きる〉ことを象徴させ、登場人物たちの成長と共に煙突の姿もまた成長させているのである。
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