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エディット・ピアフ
ベルヴィルはパリの労働者街で、彼女はそこの路上で生まれた。父ルイ・ガッシオンはノルマンディー出身でサーカスの曲芸師、母リーナはイタリア人で流しの歌い手だった。本名はエディット・ジョヴァンナ・ガッシオンといい、その頃スパイ容疑でドイツ兵に射殺され国民的英雄となった看護婦エディット・キャヴェルからとったと言われている。誕生の二ヶ月後、母はあまりの貧しさにイヤ気がさして蒸発、母方の祖母に預けられた。2歳半になったとき、こんどは父方の祖母に預けられ、ノルマンディーで幼児期を過ごした。3歳の頃、視力を失い、祖母の信仰心によって奇跡的に回復したといわれているが、この失明・開眼に関しては9歳説、11歳説とあり、多分に伝説化されているようだ。やがて父に引きとられ、サーカスと一緒に巡業、この頃はじめて歌うことをおぼえた。15歳で独立してパリに行き、本格的に歌手志望。だがどこも歌わせてくれず、長いこと大道で歌っていた。そして43年、18歳のとき、ついにチャンスがめぐってきた。“ジャニーズ”というキャバレーの経営者ルイ・ルプレの目にとまり、モーム・ピアフの芸名でデビュー、150cmの小柄ながら全身で歌いこみ大成功を収めた。この時代のファンにジャン・コクトーがいて、彼は詩をささげたばかりか“自分こそピアフの発見者”と後々までも語っている。レコード吹き込みもしたが幸運は長くは続かず、ある朝、恩人ルイ・ルプレの死体が発見され、ピアフに容疑がかかった。舞台も退き失意の日々。だがそれも詩人レイモン・アッソとの出逢い、恋愛によって立ち直り、芸名もエディット・ピアフと改めた。36年には端役ながら映画“La gar#cconne”に出演、40年にはコクトーが彼女のために書いた舞台劇「美しき無頓着者」でポール・ムーリスと共演した。41年にはジョルジュ・ラコンブ監督、ポール・ムーリスを相手役に主演映画“Montmartre sur Seine”を撮った。戦時中は反戦の闘士として知られ、パリ解放後はGIたちに親しまれ、彼らの帰国によってその名はアメリカにまで広まった。47年、48年、49年と3年連続のアメリカ公演を果たし、いずれも大成功に終わった。私生活ではレイモン・アッソと別れたあと、イヴ・モンタンを世に送ったのは有名な話だが、モンタン去ったあとポール・ムーリスと婚約。だがムーリスとも別れ、シャルル・アズナヴールをデビューさせたあと、52年、歌手ジャック・ピルスと結婚。初めての正式結婚であった。55年から56年にかけて1年2ヶ月アメリカに滞在し、カーネギー・ホールほかで大歓迎を受けたが、反面、歌がアメリカナイズされたとの批判もでた。帰国直後の56年5月ピルスと離婚。この頃から麻薬と酒に深く冒され、59年には瀕死の自動車事故に遭い、入院、退院を繰り返す日々となった。それでも舞台は歌手の生命、身体が弱り、自殺興行と言われても歌うことへの執念は消えなかった。この頃、生涯最後の幸福が訪れた。ギリシャ生まれの美丈夫で無名の歌手テオ・サラポとの出逢いである。62年10月9日に再婚、ピアフ47歳、サラポ27歳であった。そしてサラポをデビューさせ、一緒の舞台にも立ち、大成功を夢みたが、いかんせん身体が弱りすぎていた。約1年後の63年10月11日未明、療養先のニースで胃かいようによる出血のため死去。その数時間後、ジャン・コクトーはピアフの死にショックを受けて急死したと伝えられている。最後の舞台は63年3月18日、リール市のオペラ座での公演であった。74年にはギイ・カザリル監督、ブリジット・アリエル主演で、前半生を描いた「愛の讚歌」が公開された。『愛の讃歌-エディット・ピアフの生涯-』(シモーヌ・ベルトー著、新潮社刊)によれば、51年から63年までにピアフは、自動車事故4回、自殺未遂1回、麻薬中毒療法4回、睡眠療法1回、肝臓病の治療3回、狂気の発作1回、アル中発作2回、手術7回、気管支肺炎2回、肺水腫1回と記されている。『愛の讃歌』(作詞も)をはじめ『パダム・パダム』『バラ色の人生』(作詞も)、『あなたに首ったけ』『群衆』『水に流して』など、たくさんのヒットを放ち、フラスンが生んだ最大のシャントゥズ・レアリスト(人生派歌手)と言われながらも、その生涯は、いわば栄光と悲惨の航路であった。