映画専門家レビュー一覧
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武曲 MUKOKU
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映画評論家
モルモット吉田
撮影所時代なら三隅研次と雷蔵の「剣」になるところだが熊切と綾野が今撮るとこうなるという意味では興味深い。村上がどうやって独特の構えを習得したかも省略するので、ここまで映像主体に描くならATG的な観念性が欲しくなる。夏の北鎌倉の湿気を含め、近藤龍人の撮影が充実した画面を作り出し、張り詰めた空気感の中で殺気を放つ綾野をもっと見たいと思わせるが、アル中演技は粗野感に意外性がない割に引っ張るので尺を取られすぎ。「剣」が95分で語りきっていたことを思う。
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ダブルミンツ
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映画評論家
北川れい子
映画のジャンル分けなど、さして意味はないが、原作がボーイズラブものとは全く気がつかなかった。自分の“犬”を見つけた男と、無抵抗で“犬”になった男との暴力経由の愛。設定や力関係は異なるが、例えば戦友同士の関係やヤクザ映画等でも男同士の友情を超えた愛は存在するし、献身的行為の中にあるエゴや自虐性も否定できない。そういう意味では面白く観たが、どうも内田監督、2人のイタイ関係を掴みきれていないような。特に“犬”側の心理。映像はこれまでになく凝っているが。
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
私がかつて悪所場で遭遇した男色者らは罪と暴力の気配を滲ませていた。サブカルチャーの装いやジュネの修辞もなく呼び合う摩羅とは、辟易させる男のあくどさの二乗。そこに目を背けたチャラいBLやそうした素振りが女子ウケすることを知ってポーズする男性アイドルの如きはファンタジックなチンカスに過ぎぬ。だが本作にはちゃんとヘヴィさと汚辱があった。原作に淵上、毎熊克哉、カトウシンスケらの顔が乗って、ヤクザVシネのプラトニックさを犯す禁断の新味を為したと言える。
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映画評論家
松崎健夫
例えば、誕生日が同じ人に出会うと何故かシンパシーを覚えるように、同じ名前の人に出会った場合を本作は考察してみせている。内田英治監督作品には“どうしようもない人間”ばかり登場するが、彼らは時に反社会的とも思える独自の価値観を好しとしつつ、現実と対峙しながら力強く生き抜いてゆくという特徴がある。いっけんすると特異な原作だが、そういう意味で内田監督作品らしい題材なのだとも解せる。小路紘史監督作「ケンとカズ」(15)のその後を想起させる脇役の姿も一興。
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ザ・ダンサー
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映像演出、映画評論
荻野洋一
恥ずかしながら、ベルエポックを彩ったロイ・フラーという舞踊家を知らなかった。米国の農村でくすぶる娘が才能に目覚め、NY、次いでパリで大成する。ジャンル研究に関心が薄く、カイエ流の個の主体性にとどまる蒙昧なる筆者が、唯一ジャンルのもとに論じたい対象が「芸道もの」である。このジャンルは時として貴種流離譚の形をとるが、本作もそうだ。ヒロインは美貌に恵まれなかったが、発想力と肉体酷使が武器だ。これほどフィジカルな芸道ものは「赤い靴」以来ではないか。
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脚本家
北里宇一郎
まるでランプの中に迷い込んだ蛾が、炎の中でもがきあがいているような舞い。その光と影の映像。ヒロインのロイ・フラー、その女優の挑むようなマスク。さらにあのイサドラ・ダンカンまで登場。これを演じる新人はその血筋からか、眼が鋭く印象的。この二人の女優と映像の色彩に傾きすぎたか、脚本が今ひとつ食い足りない。特にロイに寄り添う没落貴族は、おいしい素材なのにうまく料理されていない。この監督、少し人間(男性?)に対して興味不足の感が。とはいえ見応えはあって。
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映画ライター
中西愛子
全身を使って翻らせるシルクの衣裳に、計算された光の照明を当て、独自の舞台芸術を完成させたダンサー、ロイ・フラー。自分には華がない。その自覚のもと、重労働な仕掛けで顔すら見えないほど自分を消し、逆説的に自分の奏でるムーブメントを舞台の華そのものにし得た彼女は、典型的な努力の人。そんな彼女を翻弄する、美の化身イサドラ・ダンカン(リリー=ローズ・デップ、美の説得力あり)。2種類の女の相克が面白い。ソーコが熱演。フラーの光と影を体当たりで表現している。
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ブラッド・ファーザー
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翻訳家
篠儀直子
「ローガン」に続き、追われる娘を守って父親が戦う話。そしてこれまた「ローガン」に続き、意外なことだが、米国の現状に関する考察でもある。メキシコ人移民労働者への共感が表明されるほか、米国はカウンターカルチャーも抵抗運動もすべて商品として呑みこむ国だと冷笑的に語る「説教師」という人物は、まるで彼自身がその米国を体現しているかのようだ。メル・ギブソンと対等に渡り合うE・モリアーティに感嘆。クライマックスが西部劇の傑作群を思わせる演出であることにも感動。
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映画監督
内藤誠
世の中からはみ出したメル・ギブソンとモリアーティの父と娘が駆け巡る現代アメリカの地獄絵図のような背景が映画ならではの手法で的確に描かれている。トレーラー・パーク、モーテル、メキシコの麻薬組織、ヘルス・エンジェルスの成れの果てみたいなバイク軍団など、それぞれの場所に巣食う者にそれぞれ実存的な哀しみがあり、アクション化して爆発する。過去にどんな絆があろうと、裏切るものは裏切るという哲学のある物語で、大型バイクにまたがり、荒野を疾走するギブソンがいい。
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ライター
平田裕介
ブルータルな性分を、役柄や演技にシンクロさせるようになったメルギブ。世間では干されたなんだの言われていたが「復讐捜査線」以降はハズレ作皆無であり、新たな黄金期に突入していただけである。というわけで、本作でも水を得た魚のごとくワルどもを蹴散らしまくる。また、かつての蛮行を悔いてみせるなどシンミリする場面でも本人とダブらせているのが◎。J=F・リシェ監督のソリッドな演出も快調で、ソードオフ散弾銃が登場する「マッドマックス」オマージュ場面は鳥肌モノ。
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ボブ・ディラン/我が道は変る 1961-1965 フォークの時代
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翻訳家
篠儀直子
同じ監督によるブライアン・ウィルソンについての映画もそうだったが、本人(今回の場合はディラン)が自ら主張してくるのではなく、多くの人々の証言と、ふんだんな演奏映像で構成される。証言者が音楽関係者ばかりであることが重要。「知られざるディランの素顔を暴く!」的な作品ではなく、音楽シーンのなかで彼がどう見られていたか、どのような足跡をシーンに残したかが浮き彫りになる。社会のシステム全体を見とおす優れた知性の持ち主が、真の詩人へと変貌を遂げるまでの軌跡。
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映画監督
内藤誠
ディランの音楽は街の雑踏のなかから聴こえてくるときが一番いいと言ったのは中山康樹であるが、その点ではこのドキュメンタリー全体のざわざわした感じは、彼にぴったり。ディランが歌っているのに、同時代を生きたという人たちががしゃべりまくる話が長すぎると思うファンもいるはずだが、それがないといかに映画好きのディランでも、この貴重なドキュメント作品は成立しない。ウディ・ガスリーやスーズ、ジョーン・バエズ、グリニッチ・ヴィレッジの映像がこのディラン伝説に貢献。
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ライター
平田裕介
活動歴半世紀超というディランのような御仁になると、音楽性の変わる“期”が複数存在するように。個人的な話になるが、そうなると聴く側にも苦手期が生じてフォーク期がそれにあたる。同時期だけは曲にグッときても背景を知ろうとせず、評伝を開いても斜め読みだった自分にとって、こうしたドキュメントだとすんなり勉強はできる。とはいえ研究されまくっている彼ゆえに、こんな自分でも知っている話が多いのは確か。そろそろ、RTR期に焦点を当てたものが出てきてもいいと思う。
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笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ
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評論家
上野昻志
むのたけじは、戦後、週刊新聞『たいまつ』を自力で刊行していた硬骨のジャーナリストとして知っていたが、日本で最初の女性報道写真家である笹本さんについては、ほとんど知らなかったので、その点は、興味深く見た。とくに、彼女が撮った女性たちの写真。たとえば、アリの街のマリアと慕われながら若死にした北原怜子、また、『明治の女たち』という写真集に収められた鈴木真砂女や阿部なをなど。むのたけじは、早稲田の学生とのトークと、肺炎で倒れたあとの顔が印象深い。
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映画評論家
上島春彦
現役最長老のジャーナリスト二人の今を記録する、というのは悪くないが、それだけ。関係者向けを超えるものではないので星伸びず。ひょっとすると両者の対談が目玉だったのかもしれないが、期待したほどには盛り上がらなかった、ということなのか。映画の出来はともかくとして、年長者が元気なのは良いことだ。一方若い人たちは大したことない。これも不満の理由である。むしろ監督なり、あるいは誰か別な若いジャーナリストを立てるなりして、の現代老人論を展開するべきだったのか。
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映画評論家
モルモット吉田
来年からの40代を生きていく自信が全くない筆者など想像の及ばない世界だが、年齢と精神は一致しない。両者とも問いかけられると瞬時に質問の意図を理解して考えを整理して明瞭に話しだす。過去がくっきりとディテールを持って懐古調になることなく今を生きる視点で語られることに感嘆。国家と個の間で生きた2人の言葉は曲がり角に来た今、より強く響く。映画について書く世界も他人事ではない。津村秀夫みたいに国家の手先となって戦争協力するタイプだなと思う人は既にいる。
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光と血
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映画評論家
北川れい子
あまり馴染みのない俳優さんたちの誠実な演技は悪くない。どんなにつらいことがあっても、家族を失っても、生きていれば“光”があるんですね、という劇中の台詞も記憶に残る。けれどもフトドキを承知で書けば、この「光と血」、まるで市井の悲劇の総ざらい。10人ほどの人物たちが、いじめ、交通事故死、レイプ、通り魔などの被害者、加害者として交錯し、自虐的になる人や復讐心を燃やす人も。そんな彼らが如何に立ち直っていくか、というのがテーマのようだが、全体に気負いすぎ。
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
登場人物らのささやかな日常、そこにおける苦しさや頑張りが描かれていくなか、不穏さが濃くなっていく。こいつら全員殺されるのか、また同時に、こいつが他の登場人物を殺すんじゃないか、と感じさせる。その予感に似て、やはり本作の群像は様々な事件で被害者や加害者となるが、このどちらにもなり得た感じは持続する。そこが良い。監督藤井道人氏の、いまの世の、とにかく人の心をザラッとさせるいやな感じに身を竦ませている感覚が過去作から一貫していることが好ましい。
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映画評論家
松崎健夫
幸せになろうとしているのに、突然不幸が訪れる。本作の登場人物たちが傷つき、その姿が痛々しいのは、人生を前向きに生きようとしているからである。一方で、悪意ある人たちもいる。彼らの多くは、何ら鉄槌も下されることなく世に蔓延っている。この不条理に対する怒りを如何に〈負〉から〈正〉へと導けるのかを、クロスオーバーする群像劇として緻密に脚本化させている点が秀逸。描かれていることは悲惨だけれども、映像は美しく、逆光を多用することで暗部との対比を生んでいる。
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ローマ法王になる日まで
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映像演出、映画評論
荻野洋一
アルゼンチンの大学生が信仰に目覚め、イエズス会に入信する。最初、日本行きを志願するのは、イエズス会の創立メンバー、フランシスコ・ザビエルに思いを馳せたロマン主義的な憧憬ゆえだっただろう。だが国内で役職に就いた彼を待っていたのは苛烈な政治闘争の日々だ。カトリック左派として軍事独裁政権と真っ向対立する主人公が、人生ゲームの最後に法王に推挙されるのは、これら政治的アクションの帰結である。つまり、ローマ教皇庁がきわめて政治的な組織であるということだ。
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