映画専門家レビュー一覧
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今日もどこかで馬は生まれる
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映画評論家
川口敦子
昔、好きだったマイケル・サラザンが出たダンスマラソン映画「ひとりぼっちの青春」。その原作が確か『彼らは廃馬を撃つ』だった、などと思わず勝手な懐かしさに浸り込んだ。観客に脇道にそれるそんな余裕を与えてくれる一作、押しつけがましさのない点がよさでもあり弱さでもあるかもしれない。関係者の意見を奇を衒わず、丹念に並べていく構成で、控えめな問題提起、情報提供の役割を清々しく全うする。その先、例えばJRA中枢部の意見もあったらなどともつい思った。
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編集者、ライター
佐野亨
時折、JRAのCMを目にしては「競馬のイメージも様変わりしたものだ」と気楽な感想を抱いていた者としては、あの人気者揃い踏みCMの裏に隠された問題を知らしめるこの映画の意義は認めたい。登場する「うまやもん」たちの表情も魅力的だ。だからこそ、ナレーションを全面的に導入して証言を数珠つなぎにするよりも、生きものとしての馬の美しさをじっくり見せてもらいたかった。そうすれば「馬が生まれる」ことの尊さがもっと身に迫って感じられたのではないかと思う。
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詩人、映画監督
福間健二
競走馬、走れなくなったらどうなるのか。どうなるのがいいのか。ファン、騎手、生産者、調教師、馬主、牧場経営者たちを訪ねて、それぞれの思いと、馬とともに生きる姿をカメラに収めている。対象が変わってもアプローチはほぼ同じ。インタビューでは似た構図の画が反復される。「こうすればいい」と結論を出せないこと。それをこの世の別な場面で起きていることにもつなぐ思考が見えない。平林監督は、馬の美しさ、健気さ、さびしさの奏でる「詩」にも興味があまりなかったようだ。
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パラサイト 半地下の家族
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非建築家、美術家、映画評論、ドラァグクイーン、アーティスト
ヴィヴィアン佐藤
私が言うに及ばずエンタテインメントとして傑作。最近では「サスペリア」、「エル ELLE」などにも該当するフロイト/ヒッチコック「サイコ」の教科書的構造。無意識「イド」の地下空間、道徳や社会のルールに従う「超自我」の地上階、両方を調整する「自我」の半地下。三つの家族はそれらを体現し、現代の韓国社会の引き裂かれた三様を照らす。北への抑止力ミサイルよりも、スマホで撮られた写真、もしくは気候変動による滂沱の大雨が、韓国社会を崩壊させていく。お見事!
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フリーライター
藤木TDC
格差社会を映像で可視化し、笑いと怒りを共存させた堂々たる風格の重喜劇。あえて難癖すれば、こうした内容の映画が莫大な予算で大作として撮られ、金持ちたちに絶賛されている様は釈然としないし、底辺層が耐えてばかりの格差映画はもはや陳腐で、それだから優れているとの評価はできない。結末のアイデア欠如も本作の不足要素で、下層民は夢を見るしか希望がないとする後段は庶民を絶望させ、監督の限界を感じた。すべてが逆転する痛快で衝撃的なオチがあれば★5を献上したが。
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映画評論家
真魚八重子
ポン・ジュノの新作というだけで絶対観ようと思わせる監督であり、本作も強烈な作家性と大胆な物語設定は、充実感があり頭に焼き付く。リアリティではなく構成の上手さとメッセージ性の映画であるのもわかる。しかし、箱庭いじりを眺めているような視野狭窄の感覚は、一度乗り損ねるとずっと世界観に入り込めないままになってしまった。近年のポン・ジュノが海外で撮った作品と同じくシュールさの土台や、階級差社会を本当に文言通り表現した作り込みが、やりすぎに見えて冷める。
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みぽりん
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フリーライター
須永貴子
アイドルになる夢に破れた30代ボイストレーナーが、「セッション」の鬼教官を超える狂気で、現役地下アイドルを追い詰める。ライトな密室サバイバルホラーという皮をめくると見えてくる、「アイドルはどうあるべきか」というテーマを巡る、新旧の価値観のぶつかり合いに興味を惹かれる。「怪しんでいる人から出されたコーヒーをなぜ飲む?」「5日前に屋外に置き忘れた手袋が同じ場所にあるのは不自然では?」など、ご都合主義のツッコミどころが目立つが、次作への期待が軽く勝る。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
また楽しみな人が出てきた。メジャー系の売れ筋な人たちの映画に軒並み失望を強いられていた今日この頃、嬉しくて涙が出そうにさえなる。音痴な地下アイドルが怪しげなボイストレーナーに軟禁されるという「ミザリー」的な設定からしてそそられる。“新感覚パニック・ホラー”と言うが、そんなジャンル的な分類を笑い飛ばしているかのよう。爆笑ではなく、ブラックなくすくす笑いのあれこれに、何故だか心が癒される。僕は好きです。こんな映画を心ひそかに待っていた気がする。
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映画評論家
吉田広明
ホラーというのは安い作りでもアイディアと演出で十分面白いものが作れるので自主作品の枠組みとしてはいいと思う。日常の描写の中に紛れ込む微妙な違和、それが徐々に積み重ねられてゆくと、日常と思っていたものの根底が崩れだす。小さな亀裂が世界をひっくり返す。このダイナミズムがホラーの醍醐味だろう。しかしそれにはアイディアの卓越か観客の意識を操作する演出の腕が要る。その困難に正面から向き合うのでなくコメディに逃げた印象。といってもコメディはもっと難しいが。
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アニエスによるヴァルダ
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映画評論家
小野寺系
ヴァルダ監督本人による、シンプルな構成の回顧録といえる作品だが、なにせ紹介する作品群が凄まじい。彼女の知性はもちろん、驚異的に軽やかな感性と好奇心が、映画という二次元の表現媒体と幸せな出会いを果たし、生涯の友となる関係性が生まれていく過程に感動。一見難解に感じられる「幸福」へのシンプルな解説も嬉しい。彼女ののびのびとした姿を見ていると、女性監督の地位の低さや、才能に見合わぬ評価に甘んじている日本や世界の状況に思いを馳せざるを得ない。
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映画評論家
きさらぎ尚
「アニエスの浜辺」を、アニエス・ヴァルダのセルフポートレートとするなら、遺作となってしまったこの作品は遺影である。自らの創作の歴史を自身の言葉と映像とで構成する技法は、ヴァルダその人によるマジックショー。タネ明かしに納得したり、驚かされたり。今作の結末にしている浜辺の情景は、前作「顔たち、ところどころ」でラストと決めていたそうで、シーンに重ねた彼女の声「よく見えないまま徐々に姿を消しつつ、私はあなた方のもとを去る」は完璧な終幕。余韻嫋々。
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映画監督、脚本家
城定秀夫
アニエス・ヴァルダによるアニエス・ヴァルダの映画及びアート作品の解説といった趣で、冒頭彼女の口から語られるように劇中すべての作品には、ひらめき・創造・共有というテーマが貫かれており、波に消されてしまう浜辺の絵のように儚いからこそ美しいそれらを高尚ぶることなくキュートに総括した本作は、寂しいが遺作に相応しく思うと同時に、彼女の人生そのものともいえるこの映画にスコアをつけることには抵抗感があり、一応中間の3つ星をつけるも本来なら星などナシにしたい。
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サイゴン・クチュール
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ライター
石村加奈
アオザイと家業の伝統に反発して、自分のファッションを確立しようと模索するヒロイン・ニュイがいきいきとしてチャーミングだっただけに、ラストのアオザイルックも、わかりやすいナチュラルメイクに変身!ではなく、彼女らしいフレッシュな着こなしを期待していた。母親役のゴ・タイン・ヴァンやジェム・ミーらの年季の入った佇まいに敵わず、残念。一方、エンドロールでやや唐突に踊り始めた、ニュイ母娘のダンスは素敵だった。踊り終えた後の、二人の物語の続きが俄然観たくなった。
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映像ディレクター/映画監督
佐々木誠
サイゴンを舞台に69年から17年にタイムスリップした傲慢な女子ニュイが、否定していた家業のアオザイ仕立ての素晴らしさに目覚めていく、というやや強引な展開。ニュイが未来の自分とまるで親子みたいな関係になっていくなど「バック・トゥ~」ほかタイムトラベル映画でおなじみのタイムパラドックス問題を完全に無視。69年を舞台にしているのにベトナム戦争も全く描かない。しかし演出は堅実で、変化を楽しみながら伝統を重んじる、というテーマを構造自体で表現している。
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この世界の(さらにいくつもの)片隅に
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フリーライター
須永貴子
前作に対する世間の絶賛に完全には乗り切れなかったが、本作には文句なしに打ちのめされた。特に、女郎・リンとのシーン。彼女との友情があったからこそ、すずはどんなに過酷な出来事に襲われても、自分を保てたのだな、と。また、現在の日本の空気が、前作が公開された16年よりも戦時中に近づいていることも、この作品が響く理由。食うものに困ったすずが、食材や調理法に工夫をする姿に、「ニンジンの皮を食べて消費税増税に打ち勝つ」という9月の新聞記事が頭をよぎった。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
素直に語りにくいのは確かだ。なにせ三年前に世の中を席捲したあの「この世界の片隅に」のロングヴァージョンなのだ。いや、ディレクターズ・カットのようなものなんだろうか。詩情あふれるカットの数々に三年前に観た時の記憶が蘇る。あの映画の持つ新しくもあり古くもある独自の抒情はやはり記憶の底深くまでしみ込んでいて、消え去ってはいなかった。が、どうしても前作との見比べ心が出てきてしまい、素直に鑑賞できたかどうか自信が持てない。それにしても、のんはやはりいい。
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映画評論家
吉田広明
白木リンら娼館の女たちのエピソードが増えることで「戦争」に加えもう一つの理不尽「貧困」が際立つことになる。すずは戦争によって右手を、リンは貧困によって夫を持つ可能性を、それぞれ失う。大切な何かを失うことで彼女らは社会の中の弱者としての位置を自覚し、それでも前に進もうとする。彼女たちが、そこから前に進もうとする根拠となる場所が「片隅」であり「居場所」だ。安易な怒りの表明でも、まして現状肯定でもない、より厳しく、しかし勇気ある道。全ての弱者へのエール。
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冬時間のパリ
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映画評論家
小野寺系
軽妙な会話シーンを中心に、不倫劇をコミカルに描きつつ、ギョーム・カネ演じる男のバブリーな時代錯誤感と、“電子書籍の台頭”という大波に飲み込まれゆく出版業界のシリアスな危機を重ね合わせていくという、アサイヤスの見事な手腕に感心する。彼が着想を得たという、エリック・ロメールの「木と市長と文化会館」もそうだが、このような大人のための知性ある映画を月に一度くらい見られたら、どれだけ人生が豊かになるだろうかと思える、いまとなっては貴重な一作だ。
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映画評論家
きさらぎ尚
この種の会話劇は好み。加えて、その会話の主のキャラクターが作家に編集者に女優とくれば、親近感とリアルさから、思わず身を乗り出して聞き入ってしまう。話の起点になっている「電子書籍ブームによって紙の書物は絶滅する」に新味こそないが、個々人のキャラクターとストーリー展開とを自然に絡ませる手法に、アサイヤス監督の巧さが有りあり。二組の夫婦と彼らに関わる人物の群像劇に発展させ、世相、つまり変わりゆくものとそうでないものに対する二面性への考察が面白い。
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映画監督、脚本家
城定秀夫
開始早々「ウッ、これロメール系の退屈おフランス映画だ……寝ちゃうかも」と思うも、それは杞憂で、二組の夫婦が織りなす小粋なラブストーリーを柄にもなく堪能した。紙から電子に移り変わる出版業界の悲喜こもごもは映画がフィルムからデジタルに移行する過渡期を経験した自分にとっても他人事ではなく一見凡庸なラストも変わるもの変わらないものというテーマに即した見事な締めだと感じたし、単純なカットバックに欠伸が出そうになる頃合いで的確に動くカメラも地味によかった。
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