映画専門家レビュー一覧
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ザ・コンサルタント
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ライター
平田裕介
盟友M・デイモンがジェイソン・ボーンとして活躍するのを、指を咥えて眺めていたB・アフレックが「俺もあーゆーのやりたい!」と主演。そういった気持ちをひしひしと感じられるが、話は破天荒の極み。それでいて、殺し屋、傭兵、切れ者捜査官が入り乱れるわりには、肝心の悪玉とそいつが進める陰謀がショボすぎる。だが、主人公の抱える“ある障害”が狙撃を含む超人的戦闘力の習得に繋がっている設定は巧いし、納得もできる。シリーズ化を念頭に置いた主人公紹介篇として観れば◎。
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沈黙 サイレンス
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翻訳家
篠儀直子
苛烈さと魅惑とが共存するこの途轍もない映画体験を、いったいどんな言葉で表現したらいいのか。単純化へと逃げないこと、対象への距離の取り方など、原作の精神に非常に忠実な映画であり、原作に存在しない謎の第三のナレーターの登場もまた、原作が持つ不透明性を最後まで保障する。ボイスオーバーの人・スコセッシの面目躍如たる、ささやくようなナレーションの声の途方もない美しさ。「沈黙」と「隠れ」の主題を具現する数々の仕掛け。ロングショットと素早いパンの見事な効果。
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映画監督
内藤誠
17世紀、幕府のキリシタン弾圧下にある長崎を宣教師の目で見た作品。長時間、高いテンションのまま画面に見入った。外国人監督の描く日本の風俗や芝居はとかく不自然さが目立つのに、スタッフ陣の調査が行き届いていて、キャスティングも的確。現代の日本人の合理性からすれば、浅野忠信の通辞が言うように踏絵くらい何でもないことかもしれない。しかしスコセッシは隠れキリシタンの貧困な境遇をあぶり出し、彼らが死後、「天国」に行くことを希求する状況をみごとに映像化した。
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ライター
平田裕介
キリスト教徒でもなく、そうなる予定もなく、なったとしても躊躇なく踏絵を踏めます。そんな自分としては、「王になろうとした男」的異境冒険記「日本で司教になれなかった男たち」として鑑賞。拷問と処刑の描写は抜かりなく、我が国では主演級の男優の首がはねられ、女優が簀巻にされて海に落とされるさまには、けっこう驚かされた。マーティン・スコセッシ御大には、彼らの事務所もさすがに沈黙といったところか。評判のイッセー尾形は、形態模写が過ぎるゆえに目立つだけの気も。
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ゾウを撫でる
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評論家
上野昻志
ここに登場する人たちは、みんな映画に関わることで、自分を取り戻すようになる、というお話。衣裳が気にいらないだけでスタッフに文句たらたらの女優は、老けメイクされた自分の顔を鏡で見て、素直な自分に戻るし、市長交代でフィルム・コミッショナーにさせられた男は、監督の話を聞いて現在を肯定するようになり、大道具を運ぶトラックに便乗したフリーターは、ロケ現場を見に来るという具合で、いい話ではあるが、女優の独白も酒場の会話も言葉と顔のアップで表すのはどうか。
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映画評論家
上島春彦
ゾウを撫でるのは群盲と決まっているから、これが煩悩だらけの群像劇なのは当然。映画がクランクインするまでのあれやこれやで、悪意はないが映画的仕掛けは満載。終わりから撮り始めるとか、主役が現れないとか、鏡の中にもう一人の自分が見えるとか。また独立プロの名作以外にも、金井勇太の子役時代の映画「ズッコケ三人組」をわざわざ使うあたり、芸が細かい。様々なハッピーエンドの予感を花束にしたみたいな物語が気に入った。菅原大吉みたいなお父さんになりたいものです。
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映画評論家
モルモット吉田
元はWeb配信されていた短篇映画らしいが一本の映画に関わる人々の挿話が重なる構成なのはそのためか。シナリオ学校の同期生が今では脚本家とシナリオ雑誌の編集者になっているとか、フィルムコミッション担当者と娘の関係など、従来の映画内幕もので触れられなかった人々に焦点を当てたのが良い。映画の中で映画愛を語る映画は鼻持ちならないが、青島×佐々部コンビだけあって臭くならない。俳優のパートは低調気味だが、殊に若手男優と大物女優の挿話が貫目不足なのが惜しい。
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変魚路
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評論家
上野昻志
髙嶺剛ワールド全開で、何が何だかわからないのに、その言葉を紡いでは不断に無化するような映像の連鎖に、文字通り夢の世界を彷徨っているような、あるいはまた、奇怪な迷路に迷い込んだような不思議な魅力に捉えられる。ここは沖縄で、その光も匂いも、オキナワ以外ではあり得ぬと確かに感受しつつも、それでいながら、どこでもないどこか、という思いがつきまとう。だから、一度見ると癖になる、というよりは、映画館の暗闇で半覚半睡の状態で醒めて見、眠っては見たいと思う。
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映画評論家
上島春彦
映画と舞台のミックス・メディア「連鎖劇」の形式、と最初に説明あり。確かに二人の主人公の格好がそれっぽいが、中身はどんどん逸脱。有名な「ウンタマギルー」に比べると特撮合成の凝り方や細かい挿話の組み合わせ方にさらに磨きがかかり、物語の要約が不可能になっている。面白いのは双焦点レンズの使い方で、画面の左右、時間の進み具合が違うかのような感触をもたらす。映画を目指す人、というより現代美術作家に刺激を与える作品。ヘンでギョロっとした映画という意味だよね。
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映画評論家
モルモット吉田
前作でもデジタルとの親和性の高さを感じさせた髙嶺剛だが、その後の18年の沈黙期間中に進んだ技術によってデジタルとフィルムを混濁させた極彩色の琉球夢幻絵巻を出現させた。〈連鎖劇〉と称して現実と虚構の往来をいっそう激しくさせ、劇中で映写される画面の内と外ばかりか、現実のスクリーンも軽々と越えて飛び出すかのようだ。既存の表現に囚われることなく、自らの奇想を具現化させるツールとしてデジタルを活用した最良の例であり、沖縄映画の新時代到来を予感させる。
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トッド・ソロンズの子犬物語
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映像演出、映画評論
荻野洋一
タイトルとは裏腹に心温まる愛犬物語とまるで無縁なのはソロンズらしい。世界に対するシニカルな視線を、ダックスフントの流転と共に提示。ユーモアたっぷりだが傍若無人、苦渋に満ちている。D・デヴィート演じる映画学科の教授は、卒業生のトークショーで侮辱を受ける。この痛苦に耐えられる観客はいまい。悔恨、不寛容、孤立無援が渦巻く中を一匹の犬が通り過ぎていく。彼の長い茶色の胴体は、名前の「糞」(ドゥーディ)であると同時に、流転の横移動を体現するスクリーン(絵巻)でもある。
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脚本家
北里宇一郎
いやあ相変わらず、すっとぼけて、笑いがこわばるソロンズ・タッチ。アメリカ映画では脇の、そのまた隅っこにいるような人たちを描いて。今回はダックスフントがつなぐ人間模様。そこに皮肉とおかしみと哀れが込められ。でも、ラストのグシャリは悪趣味だなあ(これは見てのお楽しみ?)。全体、胸に沁みるところまで行かなくて、やたら苦みだけが口に残る。それがこの監督の持ち味なんだろうけど、どうも人間観というか世界が窮屈に思えて。各挿話をつなぐアニメと歌は楽しめたけど。
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映画ライター
中西愛子
1匹のダックスフントと、この犬が行く先々で出会う飼い主たち。それぞれの風景を切り取った4つの物語が、シュールな笑いの中に浮かび上がる。斜めから物事を見つめながら、人のダメダメさを、ちょっと嫌らしくドライに、でも決して突き放したりせず、根底に愛をもって描くトッド・ソロンズのスタイルは相変わらずだ。でも、今回どこかノレなかったのは、こちらの感性が古びたからか。中盤に挿入される、物語をつなぐ休憩タイムはいらなかったのでは? 1本の線が途切れてしまう。
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トマトのしずく
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映画評論家
北川れい子
亡き母親への思いと父親への不信感。映画で何度も描かれてきたし、これからも描かれるに違いない。幼いときの思い込みを、ずっと引きずってることもよくあること。それにしても、使いふるされた設定を、使いふるされたまま、いや、ぐーんと間延びさせて描く描写の甘さ、ゆるさはハンパじゃない。父親が住所を頼りに娘夫婦の美容院を探す、たったそれだけの場面に延々と時間をかけ、しかもドラマは止まったまま。聞けば“お蔵出し映画祭2015”のグランプリ作とか。眠れ、よい子よ。
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
小西真奈美ってすごく黒目がちで耳が立ってる。黒目は、あなたを真正面からすごく見てますよ、お耳は、よく聞いてますよ、を示し、そういうサブリミナルが魅力になっている独特美人。そんな彼女と疎遠な父が石橋蓮司。キャスティングがいい。物語は監督の実感に由来するそうだが、離婚家庭ゆえに記憶のある年齢以降は数えることが可能なぐらいしか父親に会ってなかったのに、結婚し子どもが生まれたのをきっかけに年一回くらいは父に会うようになった私にも少しはわかる感じ。
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映画評論家
松崎健夫
本作では、母親との思い出が〈良いもの〉として、娘と母親ふたりの姿がひとつの鏡の中に像を作っている。しかし〈忌むべきもの〉とする父親との思い出を象徴するかのように、娘と父親の像はひとつの鏡の中に映り込まない。つまり、娘にとって理想の形は鏡の中にあるのだ。そのこだわりは、鏡だらけの理容室において、娘と父親の姿がひとつの鏡に映り込まない点に表れている。それゆえ娘と父親が和解する終幕で、ひとつの鏡の中にふたりの姿が映し出されるのは必然といえるのである。
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ブラインド・マッサージ
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映像演出、映画評論
荻野洋一
映画の技術的発展はVFXばかりでないことが、本作によって証明された。視覚障害者が営むマッサージ診療所を舞台に、うごめく人間の体臭が、見たこともない技法で撮影される。フィックスと手持ち、複数の絞り、照明、アングル、フォーカスを縦横無尽に前触れなく転換させ、その絶えざる転換によって視覚障害の感覚を見る者に疑似体験させる。光を感じる盲目と闇を感じる盲目があると登場人物が述べるが、視覚芸術たる映画がついに『盲いたるオリオン』の官能を捉え得た瞬間だ。
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脚本家
北里宇一郎
視覚不自由者の群像劇。よくある障碍者ものみたいに、彼らを無垢の存在として捉えていない。性のもがき、美への憧れ、それにふれたいというひりひりした感情。それが不安定なアングル、ぼやけた映像で表現されて。心の苦しみを肉体を傷つけることで訴えた、痛い痛い画面。観てるともう息がつまる。眼をそむけたくなる。が、ここに登場の人たち、いずれもが愛に飢え、愛を求めて。彼らの救いというか光はそこにしかないという監督の呟きが聞えたとき、この映画に普遍の広がりと深みが。
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映画ライター
中西愛子
中国のベストセラー小説を、ロウ・イエが映画化。南京の盲人マッサージ院を舞台に、そこで働く者たちの日常や葛藤を濃密なタッチで描く。強烈に人間臭い世界観がある。目の不自由な人々が社会で生きていく上で見えるもの。目で光を感じる健常者には見えないものを、映画という視覚表現から強く訴えかける。ロウ・イエのエロスはこれまで苦手だったけど、ここに描かれるあらゆる情念はエロスを超えた何かに到達している。ある一時代の集団の物語だが、青春群像としても胸を打つ。
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ネオン・デーモン
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批評家。音楽レーベルHEADZ主宰
佐々木敦
とにかくエル・ファニングありきの映画で、彼女の容姿の魅力がヒロインのキャラクター造型に直結し、映画全体のテーマを表している。出てくる男女が次々と彼女にメロメロになっていくのだが、ああいうタイプに惹かれない人もいるんじゃないの、と思ってしまったのは事実。しかし何と言ってもレフン監督の真骨頂は、ラストのアレだろう。いやあ、やっちまったな、という感じだが、僕は大好き。あらゆる伏線が衝撃の結末に繋がる、とも言えるし、全部台無しにしているとも言える(笑)。
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