映画専門家レビュー一覧

  • 脱・東京芸人

      • フランス文学者

        谷昌親

        山形に移住した芸人が、素人でありながら農業に挑戦し、数種類の作物を育て、収穫し、販売していく過程を追ったドキュメンタリーで、そうした題材自体は興味深い。しかし、ドキュメンタリー映画ならではの、題材に切り込むといった覚悟もなければ、撮影者と被写体のあいだに生じるはずの一種の葛藤のかけらもここにはない。芸人を題材にした吉本興業の作品だからだと言ってしまえばそれまでだが、ハプニングも含めてすべては予定調和的に展開していき、弛緩した時間が流れるばかりだ。

      • 映画評論家

        吉田広明

        「山形住みます芸人」が農業してその試行錯誤を追う。野菜育てのノウハウ、成功や失敗など見ていて面白くないわけではないが、芸人だから撮ってくれるとはいえ、これを本職は日々やっている。YouTubeの「やってみた動画」みたいなものではないのか(知らんけど)。それを百分劇場で見せることに対し、さしたる戦略があるように見えない。地方、農業という選択も、芸人のリサイクル目的であり、地方活性化や農業に対する強い関心も主張もあるようではない。カメラの喋り、介入も五月蠅い。

    • 火だるま槐多よ

      • 文筆家

        和泉萌香

        激しく燃えて生き急ぐ、の言葉は魅力的だが、今では時代遅れか。夭折の異色作家の声に神経を浸食された男が作り出す音と、それに感応するサイキック若者集団というアイディアが面白い。今月号の別作品でも都会(東京)の街が描かれ、また演劇的要素も含まれているが、本作では若者たちのパフォーマンスや響き渡るノイズよりも、背景に横たわるビル群と夜景の巨大さが迫力を奪ってしまっているのが否めないかつ、現代的な若者たちとセリフが終始ちぐはぐな印象なのも拭えない。

      • フランス文学者

        谷昌親

        村山槐多の人生が語られるわけではなく、槐多に魅せられた現代の若者たちを描いた作品だ。それぞれ超能力を有した彼らが、過去から響いてくる槐多の声を聞き取ったり、槐多作品にインスパイヤされて、どこかアングラ芝居ふうのパフォーマンスを披露するうちに、映画そのものも実験映画さながらにありきたりの劇映画の枠組みからはみだしていく。終盤にはフィルムを燃やすショットもあり、映画そのものの解体も辞さない意欲作だ。ただ、キノコ雲の映像はあらぬ誤解を招きかねない。

      • 映画評論家

        吉田広明

        欲というものに対して抑制的であるべき僧の、放恣な、しかも全裸の放尿。そこには確かに「無限に渇したインポテンツ」=槐多の、抑圧と欲望の葛藤が感じられる。その不能感は槐多の場合、思春期にして童貞(事実は知らないがそう思うと腑に落ちる)ゆえと解しうるが、本作の場合抑圧するものの正体が組織というだけで不詳。槐多の世界を表現するいまいちなパフォーマンスよりは、人を「普通」にする組織の正体や、その抑圧を破壊するすべを模索する方に重心を置いてもらいたかった。

    • PERFECT DAYS

      • 文筆家

        和泉萌香

        今年の春先だったか、その問題が取り上げられていた渋谷のトイレ群が随所でなんともオシャレに画を彩る。編集は快調、ネオンや酒場の灯りも上品に、素敵に整えて描いてもらった東京。観光気分で目に楽しい、のんきな嘘っぽさが続くが、役所広司が刻む表情と身ぶりはただただ素晴らしい。個人的に「些細なしあわせ」とか「喜び」と聞くと見え隠れする欺瞞に不快になる。どんなにそれを毎日見つけたとして、自身が生かされていると思っても、完璧な一日を積み重ねても人は必ず死ぬ。

      • フランス文学者

        谷昌親

        ヴェンダースが30年近く前に撮った「東京画」の劇映画版とも言えるが、「東京画」をはるかに凌駕した作品だ。小津安二郎の映画によく出てきた人物と同じ苗字を持つ男の日常が、それこそ小津さながらに、しかしあくまでヴェンダース的な画面の流れのなかで展開していく。車を運転しながらカセットで昔の歌を聴き、カメラで木漏れ日を撮影するこの初老の男は、ヴェンダースの分身でもあるだろう。首都高、下町、水辺が人物の移動とともに映り、東京の街の風景がにわかに息づいてくる。

      • 映画評論家

        吉田広明

        ヴェンダースが日本で撮った映画にはすべて小津の影が落ちているが、ここでも同様。レトロ(カセット、フィルムカメラ、銭湯、古本)とモダン(ツリー、トイレ)が隣り合う本作の日本に、古典的かつ先鋭的な小津を感じる。「夢の涯てまでも」のハイパーテクノロジーはバブル期の日本のドキュメントでもあったろうが、本作の、ほどほどのところで心の自足を得る日本も、落日の日本のドキュメントであろう。主人公の生き方の理想化には複雑な思いだが、監督は誠実に日本を記録してくれている。

    • ショーイング・アップ

      • 文筆業

        奈々村久生

        米インディーズ映画の至宝とも言われるライカートの最新作は、ミューズとも言うべきミシェル・ウィリアムズの仏頂面がトレードマークの、ミニマムでオフビートな世界。名もない人物のごく限られた日常にフォーカスすることで世相を映すジャンルは確かに存在するが、誰でも個人的な動画を発信できるようになった今、映画としてはいささか古典的な手法であるともいえる。そしてストイックでパーソナルな作風は退屈と表裏一体。胸躍るような映像体験とは対極にあることが存在意義となり得ている。

      • アダルトビデオ監督

        二村ヒトシ

        僕はアートのことを何も知らないが、有名な芸術家のインタビューや作品を撮影したドキュメントを観るよりもアートに近寄れた気がする。役者が皆いい。アートは不完全な人間が創造してること(それが脚本のテーマなんだろう)が肌でわかった。何がA24っぽさなのかもよく知らないが、アート作品も登場人物も事態もとにかく不気味で、ずっと怖くて不安だった。物語では絶対に感動させないぞという監督の強くて清洌な意志が輝いてて、でも、しっかりした物語があり、すばらしい映画だった。

      • 映画評論家

        真魚八重子

        ライカートは厳しい目線で人間を見据えた作品も撮るが、本作は明るく健やかな雰囲気に満ちている。主人公のリジーは彫刻家で、オープニングのカラフルな素描を貼った壁を写していくシーンから楽しい。リジーは間近に迫った展覧会の準備が進まず、厄介な用事を頼まれてばかりで苛々するというシンプルな物語だ。舞台となる美術学校は自由で風通しが良く、端々に写る実際のアーティストの作品も魅力的である。ライカートは自身で編集もしており、ドアの下に現れる猫の手のカットに惚れてしまった。

    • エターナル・ドーター

      • 映画監督

        清原惟

        古めかしい洋館のようなホテルにやってくる母と娘。何かが起きそうな雰囲気があるが、なかなかその正体は分からない。恐怖の予感だけが日々繰り返されて、小さな謎に耳をすましたり、様式美的なリズムに気持ち良さを感じていたそのとき、一つの結末が訪れた。ティルダ・スウィントンが母と娘の両方の役を演じるが故に、二人が同じカットに映ることはない。しかし、その仕掛けには映画的なギミックだけではない、聖者と死者を隔て、そして繋いでくれるものでもあるモンタージュがあった。

      • 編集者、映画批評家

        高崎俊夫

        ティルダ・スウィントンは能面のような無表情を湛えている一方、内面に無尽蔵な激情を秘めている神経過敏なヒロインも似合う稀有な女優だ。深閑とした森にそびえる古式ホテルに逗留する映画監督とその母を一人二役で演じた本作は、そんな彼女のミステリアスな両義性の魅力が遺憾なく発揮されている。迫りくる老い、死の予感、そして鏡、階段、風の音、窓の不気味な活用。ミニマリズムに徹した語り口によって「レベッカ」「らせん階段」などの古典的ゴシック・ホラーの格調を感じさせる逸品。

      • 映画批評・編集

        渡部幻

        ティルダ・スウィントンとのコラボでも知られるジョアンナ・ホッグは評価の高い監督だが、日本では重視されてこなかった。その作品は個人的・半自伝的で、コロナ禍に撮影された新作もまた独立しつつ、前作「ザ・スーベニア」と未公開の「PartⅡ」と同名の母親役をスウィントンが演じる連続性を持つ。古いホテルを舞台にジャック・ターナー的なゴシックホラー演出―霧、鏡、壁紙、階段―を華麗に纏いながら、中年女性監督と死を意識させる老母の絆を伝えるこの注目作は魅惑的な入口になると思える。

    • TALK TO ME/トーク・トゥ・ミー

      • 映画監督

        清原惟

        古今東西に存在してきたような降霊術をユニークに描いた作品。若者たちはパーティーでドラッグを楽しむように降霊術にのめり込む。しかし、その過程で自分自身の恐怖と向き合うことになっていく。心霊ものだけど、内的な変化を皮膚の変化で表現したり、体験している側の視点から、外側で見ている人の視点へと移り変わるような、見せ方の工夫が面白い。最後の救いのなさには、本当にぞっとしてしまったし、死後の世界があんなふうに苦しみで満ちているとは思いたくないなと思った。

      • 編集者、映画批評家

        高崎俊夫

        往年の「雨の午後の降霊祭」のクラシカルな風味を愛してやまない高齢者世代にとってはいささかシンドイ作品である。おぞましい来歴を持つ謎の手首を握り締め、「トーク・トゥ・ミー」と唱えるや、あら、不思議、90秒で誰もが例外なく悪霊に取り憑かれ、トランス状態に陥って殺戮を繰り返すというプロットというのは果たしてアリなのだろうか。それぞれの高校生たちが背負った因果律などはまったく等閑視され、狂騒的なゲーム感覚ばかりが画面を跋扈していて疲弊感だけが募ってしまう。

      • 映画批評・編集

        渡部幻

        ドラッグやアルコールへの依存を、死を弄ぶ降霊パーティーの危険性に置換したオーストラリア産の青春ホラー映画。監督がドラッグに纏わる身近な経験に重ねて語っているが、文化批評よりも心の問題に眼目がある。死者の苦悶を自らに憑依させる肝試し的な刺激が依存を生む。引き金は主人公自身に巣食う喪失感と孤独感で、A24“好み”のブランド意識とも合致している。人物造形も演技も類型をまぬがれない。が、降霊のルールが破られて以降、雪だるま式に地獄の様相を呈する畳み込かけで飽きさせはしない。

    • ファースト・カウ

      • 映画監督

        清原惟

        ケリー・ライカート監督がA24と製作した本作は、A24のイメージを覆すほど渋い映画であり傑作だった。時はアメリカの開拓時代、集落の住人たちはぬかるみの上で暮らし、貧しさと不衛生の中で生きていた。人々に余裕はなくコミュニケーションは簡単なジョークだけ。主人公の二人はこの集落で出会った。彼らに芽生えた友情の美しさ。映画というものは、一つひとつの時間の積み重ねによって、風景の中に感情が生まれ、人々の間に血が通うことを見守るものなんだ、と強く思った。

      • 編集者、映画批評家

        高崎俊夫

        さまざまな人種が混在するオレゴンの辺境を舞台にした異形な西部劇という趣向は、R・アルトマンの「ギャンブラー」を想起させる。あのミセス・ミラーとマッケイブの奇妙な関係をこの映画の二人の男の友情に置き換えると腑に落ちるのではないか。とにかく時制を大胆に省略し、行き当たりばったりで、どこへ転がるのか不分明な語り口がユニークで、後半、L・グラッドストーンが登場するせいだろうか、M・スコセッシの血に塗れた新作の牧歌的な裏面史のようにも映ずるのは興味深い。

      • 映画批評・編集

        渡部幻

        ケリー・ライカートの傑作。21世紀の巨大な艀と19世紀前半の筏に乗る牛のイメージが結ばれる。1820年オレゴン。ラッコやビーバー狩猟に翳りの見えてきた森で、白人の料理人と中国人の男が出会い、最初の牛が連れられてくる。2人は牛の乳を盗み、作ったケーキドーナツが評判になるが……。「ギャンブラー」「さすらいのカウボーイ」「ビリー・ザ・キッド」「デッドマン」の時代色とリリシズムを思わせる。近年これほど自然で、飾り気がなく緊密な映画も珍しい。淡々として奥行きの深いアメリカ映画。

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