映画専門家レビュー一覧
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家なき子 希望の歌声
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ライター
石村加奈
140年以上も語り継がれる原作を脚色するにあたって、語り手レミ(ジャック・ペラン!)やリーズの設定変更など巧みだ。レミの歌声に、天賦の才を与えたことで、ヴィタリス(ダニエル・オートゥイユ)との天才音楽家同士の親交が深まり、2カ月に及ぶヴィタリスの投獄を待ち続けた、レミの健気さを支えている。ロンドンの雪の描写が絵本のように幻想的。原作では山あり谷ありだった長旅のスリルが、映画では平たく、ラストの希望に向かって、直線的に描かれているのは少し味気ないが。
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映像ディレクター/映画監督
佐々木誠
原作の長い物語を新たな解釈を加えつつ魅力も損なわず2時間弱にまとめていて、アニメ版(東京ムービー新社制作)の影響もヴィジュアルイメージに強く出ている。レミに歌の才能があるというのが一番のオリジナル要素だが、演じるマロム・パキンのその歌声、ルックスも含めたハマり具合は奇跡的で、素直に彼の冒険に一喜一憂してしまう。ダニエル・オートゥイユ(ヴィタリス)、ジャック・ペラン(壮年期のレミ)の存在が大人のビターなドラマとしての側面を担い、深い余韻を残す。
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エイブのキッチンストーリー
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
『ストレンジャー・シングス』のノア・シュナップに『ブレイキング・バッド』&『ベター・コール・ソウル』のマーク・マーゴリスという二大傑作テレビシリーズの出演陣の顔合わせ。アメリカ資本の入った作品では久しぶりの出演となるセウ・ジョルジにYouTubeで台頭したブラジルの映像作家。そんな座組のフレッシュさが、そのまま作品の仕上がりに反映されたいわゆる「フィールグッド・ムービー」。パレスチナとイスラエルの対立を「どっちもどっち」的に描いている点は大いに疑問。
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ライター
石村加奈
「アーニャ~」とは一転、ノア・シュナップが、ブルックリン生まれのエイブ少年のいまを軽やかに生きる。ブラジル人のストリートシェフ・チコ(セウ・ジョルジ)の、なにに惹かれて、どのような交流を育んでいったのか? など内面を深堀りせず、12歳の少年の日々を淡々と綴っていく。エイブが見つけた真実は彼だけのものだと言わんばかりの、風通しのよさがいい。本音を抑え切れずにエイブを傷つけてしまう祖父ベンジャミンを、マーク・マーゴリスが上品に演じていて流石だなあ! と。
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映像ディレクター/映画監督
佐々木誠
パレスチナ系の父とイスラエル系の母の間に生まれブルックリンで育った12歳のエイブ(でありイブラヒムでありアブラハム)の日常がSNSの投稿を通して描かれる冒頭が秀逸。そこから彼の“複雑な世界”に入り込み、辛辣な言葉が飛び交う親族間の諍いに心を痛めて、得意の料理を使って行動を起こす彼の姿にどんどん心動かされる。フュージョン料理をこのテーマに重ねるのも上手い(お前の作ったものはフュージョンではなくコンフュージョンだ、という師匠チコとのやりとりも)。
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粛清裁判
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映画評論家
小野寺系
現存する記録映像を編集し、新たなドキュメンタリー作品に仕上げる試みだが、その出来は予想以上。政府に与しない識者たちが公衆の面前で悪者にされ、さらに失政のスケープゴートにまでされ処刑へと進んでいく狂騒が、凄まじい迫力で蘇る。最近の日本の学術会議問題のように、政府の暴走やデマに煽られて過激化する市民の姿を克明にとらえた構図には、時代や場所を超えた普遍性が存在する。基になった映像にも力があるが、資料をここまでのものに仕上げた手腕と発想力がすごい。
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映画評論家
きさらぎ尚
資料を読んでから作品を見たのだが、スターリンの仕組んだこの裁判の異常さにはただ驚くばかり。産業党なる存在しない党をでっちあげ、被告たち全員が当局に事前に指示されたシナリオに沿って陳述し、捏造された罪を揃って認めている。傍聴する大勢の市民は観劇を楽しむかのよう。いや裁判官、被告、傍聴人の別なく、この裁判自体が滑稽な演劇と映る。権力がここまで徹底して演劇的空間を作り出したとは!? スターリンの見世物裁判に戦慄しつつ、歴史は過去でない、が胸をよぎる。
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映画監督、脚本家
城定秀夫
架空の党の架空の破壊工作の罪に問われる無実の学者たちを入念なリハーサルを経たであろうでっち上げ裁判で有罪にするという、プロパガンダ目的の記録フィルムを再編集した本作、劇団スターリンの裁判官や検事はおろか、被告人までもが台本通りに演じ聴衆を熱狂させる見事な裁判劇になっており、資料として貴重なうえ、独裁政治の非道や、映画が時として悪魔の道具になる恐怖についても考えさせられるのだが、嘘と分かっている茶番を解説なしに2時間観通すのはちょっとキツかった。
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国葬
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非建築家、美術家、映画評論、ドラァグクイーン、アーティスト
ヴィヴィアン佐藤
スターリン葬儀の1日。指導者の肉体と国家の肉体、ソ連の地方都市と首都モスクワ、モノクロームとカラー、顔のない群衆と個々の顔顔顔。様々な二項対立が振り子のように何度も往復し、ソ連の国土や国民の意識、映像の本質を隈なく網羅していく圧倒性。地球には西側以外にもうひとつの巨大な世界が存在していた。「撮影がなされなければ存在しない」という20世紀から続くテーゼを証明しているかのようだ。撮影しているカメラはただの一台。宗教のない星の人々の畢竟の大作。
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フリーライター
藤木TDC
圧倒される発掘フィルムだ。超大国ソ連の国家行事を最大規模で撮影したアーカイヴであると同時に、沈鬱な人間の顔をひたすら映すだけで何も起きない壮大なアンビエント映画でもある。酷寒期のスターリン葬儀の3日間、膨大な参列者が映っているにもかかわらずニヤけた顔がひとつもなく、その深刻の重層は全体主義の圧力と緊張を客席にも強く伝える。国家体制はまさに民衆の顔に象徴されるのだ。「東京オリンピック」「金日成のパレード」などと見較べたい国家行事映画の新しい古典。
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映画評論家
真魚八重子
悲喜の感情を顔に表す人がいない粛々とした葬列。これは映画と名乗られれば映画というしかないけれども、記録フィルムをつないだものと形容するのが正しいだろう。編集に意図的な時間の流れがあるわけでもないので、スターリンの国葬を捉えた映像のかたまりとしか形容できない。史料価値はあるけれども部外者が長々と観るには……。ロシア史や独裁者について研究している人が資料として観るのがふさわしいと思う。これまで経験した映画鑑賞の中でもワースト3に入る苦行だった。
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アウステルリッツ
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
ダークツーリズムという今日的な題材を、フィックスされたデジタルカメラによる「観察」によって延々と映し出した作品。セルゲイ・ロズニツァ監督の視点はどこまでもアイロニックで、それは「観察」によって導き出された結果というより、最初から意図されていたものだとしか思えない。注目すべきはその精密な音響設計。ツーリストたちの雑然とした喧騒の中から徐々に浮き上がってくるガイドの声とそこで語られるエピソードは、非演出を装った本作を巧みに演出していく。
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ライター
石村加奈
撮影カメラに気づいた観光客の、手を振るでも(若者が一人だけ反応)怒るでもなく、一様に無反応な態度が不気味だったが、自分もそう振る舞うのだろう。かつて囚人が吊るされた柱のレプリカの前でポーズをとる様子や、囚人の飢餓について説明を受けた直後、のんびり食事を摂る人々の姿に加え、移動を促すガイドの「5分後に食事できますからいまは我慢して!」という言葉まできっちり組み込む、編集の思惑通り、様々なことをわが事のように考えさせられる。傍観を許さぬ迫力に戦慄。
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映像ディレクター/映画監督
佐々木誠
ガイドの話を聞かないで、ふざけ合うカップル、自撮り棒を使って記念撮影する家族――観光地でよく見る風景だが、そこはナチスの強制収容所の跡地で、ガイドが説明しているのは、その場で拷問され殺された囚人たちについてだ。全篇、白黒加工し完璧に計算された構図の定点カメラが、見学する観光客の様子を捉えている。「場所」を軸に、撮る者と撮られる者、そしてそれを観る者の視点が時空を超えて交差する。皮肉と希望が入り交じったダークツーリズムの現実、その断片。
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タイトル、拒絶
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映画評論家
北川れい子
デリヘル嬢の楽屋裏。既視感のある題材だが、もとは山田佳奈監督の劇団の舞台劇だとか。なるほど半裸姿で、“私の人生クソだった”と観客に向けてぶっきら棒に語る伊藤沙莉を狂言回しにした本作、同時並行的に何人もの女たちのそれぞれの状況が描けるので、題材として刺激的。そして見えてくる女だけの職場にありがちな(いや男だけの職場も同じか)嫉妬や競争心、コンプレックスに自虐性。アッケラカンと性を売る女も出てくるが、女の生きるパワーよりサラシ者的なのが気になる。
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編集者、ライター
佐野亨
冒頭の切実なモノローグから、伊藤沙莉の表情と口跡に引き込まれた。俳優の主体性が映画を動かすとはこういうことを言うのだろう。山田監督の演出にも力が入っているが、おもな舞台となるデリヘル嬢たちの待機部屋における空間演出は、俳優たちの演技の迫真(それじたいは見ごたえがあるのだけれど)を演劇的な虚構性の裡に回収してしまうきらいがある。しかし、見かけの「当事者性」のうえに胡坐をかいている作品が目立つ昨今、生きた人間のいとなみを注視する誠実さは買いたい。
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詩人、映画監督
福間健二
デリヘルの話。山田監督がかつて舞台でやったという群像劇。練られてもいるだろうが、空気がだいぶ古めに感じられる。この場合、古めなのは、欠点とばかりは言えない。見ながらずっと思ったのは、半世紀以上前の溝口健二「赤線地帯」と比べてどうだろうということ。表現力、とくに画面の奥行きでは及ばないとしても、こちらにも、言えていると思わせるセリフと世相の奥にあるものを抉る強度がある。漫画的な誇張を、どの人物にも用意されている正直な言い分が、空疎にしていない。
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さくら(2020)
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フリーライター
須永貴子
タイトルロールのサクラを演じる俳優犬のちえにパルム・ドッグを贈呈したい。カウリスマキ映画に出演した歴代の犬たちに通じる、飄々とした気品がある。リビングやダイニングで、家族とサクラが一緒に居るだけで、そのカットが特別なものになる。サクラに愛を注ぐ長谷川家の物語は、末娘の取り扱い方法でミスをした。理解不能な美しい獣として描けばいいのに、映画オリジナルの性的な描写で陳腐化してしまった。長谷川家がサクラに救われたように、この映画はちえに救われている。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
あの「風たちの午後」の矢崎仁司さんが健在であることを印象づけた映画だった。低迷の今の日本映画界にあって、この作品はかなりの称賛を以て迎え入れられるだろう。どこにでもありそうな家族のグラフィティ。「死」を扱っているが、その悲しみを転がすように「生」を力強く躍らせている。惜しいのはナレーションの多用。無用な説明、余計な予告が見る側の興を削いでしまう。ナレーションは魔物だ。いっそなかったら、どんな大傑作になったんだろうとさえ思った。
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映画評論家
吉田広明
犬の名が題名だからと言ってほのぼの映画を思い浮かべる観客に冷や水を浴びせかける。語り口はユーモラスながら、映画はごく仲の良い普通の家庭に潜在する危うさを明らかにしてゆく。とりわけ兄への近親相姦的、同級生との同性愛的感情を示す小松菜奈の小悪魔的存在は、異物として揺らぎをもたらす。しかし同級生が卒業式で同性愛者としての自身を高らかに肯定してみせるように、映画も「悪送球」をしてくる世界を肯定する。誰をも無条件に愛する犬は即ち神なのだと判明する。
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