映画専門家レビュー一覧
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アナと世界の終わり
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映像演出、映画評論
荻野洋一
ハイスクールミュージカルに「~・オブ・ザ・デッド」と接ぎ木してあげるだけで新ジャンル誕生という世の中だ。どうせ人類文明はそろそろ終わる。ならばナンセンスと戯れつつ踊り続けよう。そんなニヒリズムが画面を貫く。演出の境界は明確だ。世界が終わろうと、人物の動線は自宅・高校・ショッピングセンターだけで形成される。世界滅亡をB級ジャンルとして捉える史観だ。ヒロインの彼氏のセーターが、ゾンビ化してもなおクリスマスの電飾できらきら明滅する情緒にほろりとする。
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脚本家
北里宇一郎
いまや食傷を通り越して食中毒を起こしそうなゾンビ物も、味付けを変えるとまだまだいける。出だしがハイスクール・ミュージカルのセンス。歌曲がロック&ポップ調ということもあってけっこう胸躍る。いざゾンビ登場となると、おやおやまたかいなの展開となるが、随所に歌が入るので、いつもの陰々滅々ムードが和らぎ助かる。ただ結末になるにつれ、ヒヤヒヤドキドキに重点が移るのが残念。ミュージカルなんだから、もう少し飛躍した趣向がほしく。ゾンビ諸君の集団舞踏てな場面とか。
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ゴジラ キング・オブ・モンスターズ
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翻訳家
篠儀直子
さまざまな怪獣が登場するせいもあり、演出にヴァリエーションがあって五年前の前作(G・エドワーズ版「ゴジラ」)より華やか。南極や海底遺跡での光のスペクタクル、フェンウェイ・パークに迫る嵐など、イマジネーションを激しく喚起する。怪獣たちの撮り方に、人知の及ばぬものに対する畏敬の念が必ず表われているのも特徴的。しかしジュラシック・パークのシリーズもそうだったが、またしても「猿の惑星」的なものを予感させる展開になるのは、いかなる集合的想像力によるものか。
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映画監督
内藤誠
「シン・ゴジラ」は原点に帰った単純明快さで好評だったが、このハリウッド大作はまた複雑化している。人類は私利私欲の結果、環境汚染も進み、さらには巨大怪獣が暴れまくり、世界各地の都市は破壊されている。それを救うのはいま眠っているゴジラを目覚めさせてモスラやラドン、キングギドラと戦わせるしかないという途方もない話。その使命を担う芹沢博士が渡辺謙で、伊福部音楽にのってゴジラが登場するのはいいのだけれど、おなじみの巨大怪獣たちがやられていくのは哀しい。
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ライター
平田裕介
さすがに異星人ではないが怪獣を操って世界を滅ぼそうとする悪人の存在、重要キャラの少女を“怪獣たちの気持ちがわかります!”みたいな子供にしないなど、大人向きにしつつも怪獣映画の定石をしかと踏んだ姿勢が良い。前作では眉間に皺を寄せているだけだった芹沢博士にも大活躍の場を用意し、しかもオリジナル第一作への泣かせるオマージュとなっている点は本気で震えた。モナークの面々が乗るのが事故の多いオスプレイで、怪獣同士の対決よりも墜落が気になったのが残念。
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僕はイエス様が嫌い
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評論家
上野昻志
雪深い山村のミッション系の学校に転校して、決まった時間に礼拝する少年の戸惑いから始まるこの映画。何よりも、教室の外の無人の廊下を縦構図で撮ったショット。また、礼拝堂に上がっていく渡り廊下を雪に埋もれた校庭の側から撮ったショット。そして、雪中での二人のサッカーをロングから捉えたショットなど、画面の一つ一つが鮮明に眼を捉える。小さなイエスが何故現れるのかわからない。しかもイエスは何もしない。親友をも助けない。だから、彼は弔辞を読んだときイエスを潰すのだ。
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映画評論家
上島春彦
ショッキングな題名だが見て嫌な気がしない。声高なメッセージを前面に出さないからだ。むしろ少年はこれをきっかけに信仰に目覚めるのかもしれないし。神様は「いないと思えばいない」のだ、という仏教徒の祖母の含蓄ある言葉の意味に、少年はこの映画の後で立ち返るわけだな。画面には現れないが、死んだ友へのお祈りを拒否した笹川君の真意とか、献花の件で妙に手回しの良い担任の先生とか、気がかりな細部(もとより答えはない)が数多く見応えあり。ラストの俯瞰も効いている。
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映画評論家
吉田伊知郎
塩田明彦+園子温的な小学生と宗教の映画だろうと想像していると、どんどん逸脱する。荘重さが欲しいと思う場面は軽く処理され、対立が起こると思うと、軽くいなされてしまう。神様の描写も軽すぎると観ている間は思うが、神仏習合の国の子どもが想像するイエス様はこんな感じだろう。大人が都合よく子どもを動かすのではなく、子どもの目線に寄り添ったからこそこうなったと思えば、納得できなくもない。背伸びせずにこれまでの来し方を集約させた監督の次こそが始まりとなる。
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パラレルワールド・ラブストーリー
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映画評論家
北川れい子
要するに、同じ人物が動き回る二つの世界の、どっちがインチキでしょうという夢オチ系のミステリーで、ラブストーリーが絡んでいるのがミソだが、どうも身を乗り出したくなるほどの設定でも人物たちでもなく、全て映画にお任せしてただ観ている始末。二つの世界を行き来する主人公の、その原因の一つが、親友の恋人を横取りした罪悪感だとしても、その恋人にしろ親友にしろ、主人公側からしか描いていないので果たして彼らが存在するのかどうか。“真実”とやらもムダ足気分。
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
この欄をやってきた通算七年分の自分の方法の不徹底さのひとつをここで急に反省する。小説や漫画の原作がある映画について(それってほとんどの映画だが)可能ならば映画を観た後この短評を書くまでに原作を読むことをなるべく心がけたがそれは出来たり出来なかったり。それは良くないブレであった。今回は読めてない。だが今まで主にこの欄のために読んだ何冊もの東野圭吾小説はどれも面白かった。本作にもその感じがある。染谷将太氏はこういう役柄もアリ、ということは発見。
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映画評論家
松崎健夫
小説における叙述トリックを映像化することは難しい。文字上では想像に委ねることや意図的に隠されたことが、視覚化されることで明確にしなければならなくなるからだ。本作は、原作でミスリードさせられた“からくり”を、映像でも果敢に実践しようと試みている。タイトルに“パラレル”とあることで、既にミスリードされているのだが、フィルムとデジタルのカメラを使い分け、映像の粒状性に違いを持たせ、スタッフを2班に分けるなどして“ふたつの世界”を具現化させているのだ。
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イングランド・イズ・マイン モリッシー,はじまりの物語
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ライター
石村加奈
雨の街・マンチェスターで、学校でも職場でも、ライブハウスでも馴染めず、鬱々と暮らす17歳のスティーヴンのナイーヴさ。後にザ・スミスのフロントマン、モリッシーとなる主人公の魅力を「ダンケルク」(17)のジャック・ロウデンが繊細に表現する。遂にジョニー・マーと出会うシーンがドラマチック。無人の世界の静けさに呑まれることなく、自分のリズムでマーの家の扉をノックするスティーヴン。モリッシー家の玄関の飾り窓もさりげなく美しかった。美術はヘレン・ワトソン。
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映像演出、映画評論
荻野洋一
80年代前半、ザ・スミスがマンチェスターから登場した時のことはよく覚えている。高校生の私は“これでポストパンク=ニューウェイヴはメランコリックなギターロックに収束したな”と観念し、その分の愛情も映画に注ぐことにした。本作はその前史だ。モリッシーはNME紙で音楽評論を書き、ザ・スミスは結成さえされず。このアンチカタルシスはのちの「ボヘミアン・ラプソディ」へのアンチテーゼたり得る。だとしても雌伏に終始するにせよ、映画としての肉が物足りない。
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脚本家
北里宇一郎
ザ・スミスのモリッシー。そのデビュー以前の時代を描いて。売り込みに成功してメデタシみたいなロック映画になってないところが面白く。音楽への想いとか表現力はあるのに、それをどうやって実現していいか分からない。その悶々鬱々の日常。就職しても場違いだったり、ライブが好評でも後が続かなかったりの挿話の数々が、普遍の青春像を感じさせて。彼を揺さぶる3人の女たちも上手く性格の色分けをされ、よきアクセントに。意外に地味な展開だけど、じわじわ沁みてくる青春映画の佳作。
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作兵衛さんと日本を掘る
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映画評論家
北川れい子
むろん、顔が眼目の映画ではないのだが、山本作兵衛が描く炭鉱労働者の顔は、男はみな高倉健似で、女は母親も娘も山田五十鈴系。目はどちらも黒々と力強い。今回、熊谷監督は、先行のドキュ「坑道の記憶~炭坑絵師・山本作兵衛~」を一歩踏み込んだ形で、山田五十鈴似に描かれていたヤマの女たちの実態を検証し、現代へとつなげる。そういえば三池炭鉱の?末を記録した「三池 終わらない炭鉱の物語」も、メインにいたのは妻たちだった。多彩な証言者たちのことばも貴重な力作だ。
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
本作監督の過去作「三池 終わらない炭鉱の物語」と繋がるのはもちろんだが、山本作兵衛という特異な画家を紹介することがその画の色鮮やかな物語性を伴って、観る者に強く訴えかける。その“物語”において重要な真実はルポやドキュメンタリー以上に伝わってきた。私は本作が見せる作兵衛氏の炭鉱労働画によって、身体や生命に危険のある過酷な労働とは、労働者各人の自己保存の本能に労働の質を抱き合わせる究極かつ最低の自己責任論だと気づかされた。この問題は現在にも続く。
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映画評論家
松崎健夫
葬送の翌夏、母の郷では各戸で“盆踊り”の会場を設けるという慣わしがあった。夏の夜になると僕が〈炭坑節〉を思い出すのはそのためだ。幼少期から耳にしていたからか、〈炭坑節〉が延々と流れることに違和感を覚えることはなかったのだが、筑豊を舞台にした本作を観て、僕はその理由を初めて悟ったのである。親族に対する単なる鎮魂ではないということ。炭鉱で命を失った人たちの労働の上に我々の生活があるということ。「炭鉱は日本の縮図」という作兵衛の言葉が重くのしかかる。
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兄消える
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評論家
上野昻志
寂れた鉄工所を営む初老の男のもとに、兄が訳ありの女を連れて40年ぶりに帰ってきて、周囲の年寄り仲間を含め、ちょっとした波風が立つという話自体は悪くないが、兄に扮する柳澤愼一をはじめ、新橋耐子のスナックに集う老人たちの演技が、芝居臭いのが鼻につく。皆さん、芝居をじっくり見せたいという監督の期待に応えたのかもしれないし、やってるほうは気持がいいかもしれぬが、映画にとっては邪魔になる。だから、自然体でそこにいる高橋長英にカメラが向くと、ホッとする。
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映画評論家
上島春彦
ラストに流れる〈私の孤独〉に七〇年代『木下恵介アワー』の記憶が蘇り、感無量である。高橋は『痛快!河内山宗俊』でファンになって以来四十年。柳澤はラピュタの告知ナレーションを聞いていたから健在なのは知っていたが、ここまで動けるとは意外だった。彼はもちろん『奥さまは魔女』から知っている。おどろおどろしい憎悪劇が起こりそうな登場(再会)シーンだが、案に相違して和み系ストーリーで嬉しい。喫茶店での固定ロングでドラマが二つ分、一気に展開する効率性を高評価。
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映画評論家
吉田伊知郎
冷え冷えとした地方都市を舞台に無愛想な老兄弟の再会というカウリスマキあたりが撮りそうな話で、日本映画的な情感に流れないのが良い。おしゃべりの度が過ぎる台詞の洪水に日々晒される身としては、饒舌ながら無駄な台詞のない見事な脚本と柳澤愼一の声に聴き惚れる。〈秘密〉はあっさりしたものだが、最近では珍しく全篇をアフレコで撮っているようで、均一化された声が継続していくのが効果的。今号は老人を対照的に描いた3本が並んだが、今後はより作り手の見識が問われる。
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