映画専門家レビュー一覧

  • ブルータル・ジャスティス

    • 映像ディレクター/映画監督

      佐々木誠

      やたら確率を気にするメル・ギブソン、何かあると「アンチョビ」と呟くヴィンス・ヴォーンの停職中の刑事コンビ。世渡りがうまい上司はドン・ジョンソンで、昔はメルの相棒だったという設定が泣ける。登場人物それぞれの日常の断片、繰り返される意味のない会話、脇役ですらないキャラの背景、それら「素材」を荒々しく繋ぎ、劇伴も全くない。その構造はまるで無骨なドキュメンタリー映画のようでグッとくる。最後まで妙なズレ方をしていて、その脱カタルシスが心地良い。

  • シリアにて

    • 非建築家、美術家、映画評論、ドラァグクイーン、アーティスト

      ヴィヴィアン佐藤

      画面の外、いわば部屋の外は完全に戦争状態。密室劇でもあるし舞台劇でもある。外的作用が内的影響を及ぼしていく過程。戦争による直接の砲弾や射撃はさることながら、苛酷な状況下において個人により判断や行動が異なり、共同体で分裂や分断が起きてしまう。これは現代のコロナ禍でも同じ状況で、人によって捉え方の温度差に激しく分裂が生ずる。戦争経験とはあらゆる人間に降りかかるが、決して同じ様相には映らない。武器での死傷より共同体の分断は人の心を深く傷つける。

    • フリーライター

      藤木TDC

      激戦化しつつあるシリア都市部のマンション住民を室内だけで描いた一幕劇。裕福で名声もあったろう人物の所有する部屋数が多く複雑に移動できる広い物件がシェルター化し、娘の恋人や上階住人まで共棲、平時のユルい日常をひきずる普通の人々の点描が巧みで逆説的に戦下の厳しさが迫ってくる。名女優ヒアム・アッバスの含みの多い演技が魅せるも、中盤以降の展開に工夫がまったくなく平面的。娯楽性の薄い映画祭向け映画をコロナ禍の暗い世情のもと、あえて見よと推すのは躊躇される。

    • 映画評論家

      真魚八重子

      一種のシチュエーションスリラーとなっていて「ある建物の一室から出られない人々」の設定がうまく機能している。一家の大黒柱となっている主人公と、彼女と絡む助演の2人は女性で家事や子育てを行う。この建物に残された男は老人と子どものみで、ただ生きているだけ。肝心の能動的な男性たちは、この建物へは強奪と凌辱目的でやってくるという、性別による役割や好戦性が表立って描かれている。戦争の攻撃が間欠的で、日常生活に銃声が侵入してくるため緊張が続く。

  • 僕は猟師になった

      • フリーライター

        須永貴子

        山に残された猪の痕跡、12㎝の穴を地面に掘って作るワナ猟、捕獲した猪(の胎子は衝撃…!)や鹿の解体作業など、猟に関するシーンはネイチャードキュメンタリーとしてハイレベル。それ以上のインパクトを残すものが、千松氏が語る命の哲学と、その生き方。獣害を取材したパートにより、作品の軸が社会問題とどっち付かずになってしまった。森の仙人ではなく、真っ当さの純度を高めながら、社会と折り合いを付けて生きる千松氏を追うだけで、十分成立したように思う。

      • 脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授

        山田耕大

        わな猟師の千松さんは京大生の時、「自分で肉を獲れたらおもしろそう」と猟師免許を取ったという。獲った獣の肉は売らない。家族や知人と余すことなく分け合う。猟の時に千松さんは足の骨を複雑骨折するが、手術しないと足が曲がってしまうと言われても、ギプスをあてがうくらいの最低限の治療しか受けない。そうやって獣と向き合っている。終盤、罠にかかった猪との格闘は圧巻。棒で猪の頭を叩こうとする千松さんに対して、猪は口に枝を咥えて対抗しようとする。人も獣も対等なのだ。

      • 映画評論家

        吉田広明

        目に見える徴から目に見えない獣の生活世界を読み取る過程や、必死に抵抗するイノシシを殴り、のしかかってとどめを刺すまでの数分に亘る壮絶な格闘を見ると、漁師は言わば獣化しているようで、しかしそれで初めて人と獣は均衡するのかもしれない。人が山に入らなくなったから、獣が町に下りてくるという。それだけ人間が獣に競り負けているのかもしれない。「獣害」は人が自然から自身を隔離しようとするからこそ生じるという逆説。人と自然はどうあるべきかを獣側から照射した作品。

    • 狂武蔵(2020)

      • 映画評論家

        北川れい子

        斬る人、武蔵――。山道や野っ原、寂れた集落などを吉岡一門と追いつ追われつしながら、77分、カットなしで、ただただ斬り捨て、斬り進む。ほとんど無言の武蔵の斬り捨てアクションに特化したのは、坂口拓の狙いなのだろうが、設定がシンプルなので観ながら雑念が次々。カメラやアクションだけではなく、太陽の動きまで気になり、遂には延べ400人という斬られ役たちの、2度、3度の使い回し(!?)を想像したり。が、終盤のプラス映像はかなり鮮烈で、老いた武蔵には死霊の影も。

      • 編集者、ライター

        佐野亨

        スローモーションとモノクロ映像を駆使した「スタイリッシュ」な冒頭に早くもいやな予感がつのる。そこからこの映画の最大の(そして唯一の)ウリらしい77分ワンカットの吉岡一門との乱闘シーンへとなだれ込むが、手持ちキャメラで武蔵の背後からその足取りをとらえるだけで、なんの変化も工夫もない。斬られたあと早足でフレームアウトする刺客たちには失笑(ダウンタウンの番組にこんなのあったぞ)。自慢気に撮影風景のスチルを見せられても、いったいどう思えばいいのやら。

      • 詩人、映画監督

        福間健二

        おそらく、問題の多い出来ばえの、しかし苦労して撮った、殺陣がえんえんと続くワンシーン・ワンカットがあり、時間を経たのちになんとかそれを活かそうとしたものだろう。下村監督、関与度はわからないが、お疲れさまである。まず、殺陣シーンの問題点。斬れていない。叩いている。血糊の袋が破れるだけ。そういうこと以上に、人を斬ること、人を殺すことについて考察が感じられない。後処理のほうも悲惨だ。この武蔵は、狂っているのではなく、キャラクターにたどりつけないのだ。

      • フリーライター

        須永貴子

        国民的大ヒット曲をもとに作られる映画は、国内のマーケットだけを前提に、老若男女の味覚に合わせて開発された、ファミレスの王道メニューのよう。同様の本作を、コマーシャルだと一蹴するのは簡単だ。しかし、平成元年生まれの男女が紆余曲折を経て、令和に切り替わる瞬間に結ばれるというまるでSFのような筋書きを、ロケ地でメリハリを付けながら見せきる豪腕はプロの仕事。シンガポールの夜、カツ丼を食べながら泣きじゃくる小松菜奈だけでも観る価値がある。

      • 脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授

        山田耕大

        例えば心に残るのは、「エデンの東」の観覧車でのキャルとアブラとの一切手を動かさないキスシーン。キャルの心情が手に取るようにわかるのだ。母親の愛人から顔面に痣ができるほど暴力を受けている葵だが、漣と「小さな恋のメロディ」のように軽やかにキスをする。男そのものに対して怯えを感じている筈の葵があんなキスをする? そこから違和感が始まる。つい最近、これとものすごく似た話の映画も観た。お金をかけているようだが、なんとももったいない。

      • 映画評論家

        吉田広明

        平成元年生まれの男女が平成最後の日に劇的な再会を果たす話だが、見終えてなぜ平成なのか、平成をどう捉えているのか全く見えてこない。プレスによれば平成の名曲にインスパイアされ、平成に人気の子供の名前を用い、平成を代表する職業につけたというが、そんな官僚的な想像力から何が生まれるというのか(菅田の職業がチーズ製造なのも、北海道だから牛だろ、乳だろ、チーズだろ、程度の発想に見える)。瀬々監督にはこのような映画で時間を無駄にしてほしくないと心から思う。

    • テロルンとルンルン

      • フリーライター

        須永貴子

        孤独を抱える青年と女子高生が、薄汚れた窓越しに出会い、それぞれの一歩を踏み出すまでを描くボーイミーツガールもの。青年が引きこもるガレージの“聖域”感を作り出した美術を筆頭に、スタッフワークのクオリティがもれなく高い。少女が青年に修理を頼んだ猿の玩具が、部品が手に入らないために修理ができないという展開に、彼らの欠落感や苛立ちが重なる。CM出身の監督にありがちな、パッケージは整っているが中身の薄い作品とは違い、骨太かつ普遍的。長篇が楽しみだ。

      • 脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授

        山田耕大

        最近は日本映画を観ると気が滅入ることが多かったが、この映画には光を見た。花火事故で父親を亡くしてテロリスト呼ばわりされている青年と聴覚障害の孤独な少女との心の交流。二人はそれぞれ社会からの心醜い攻撃にさらされている。が、二人を結びつけるものはそれを跳ね除けるほど強く、愛らしい。ゼンマイ仕掛けの猿の玩具は、まるで二人を模したかのようだ。彼女のたった一つのセリフ!! 一時間足らずの長さだし、お金だってかけてないが、まさに映画なのだ。

      • 映画評論家

        吉田広明

        父親が起こした死亡事故のせいで引きこもりになった修理屋の青年と、難聴でいじめられ、心を閉ざした少女が出会い、周囲の無理解に打ちひしがれながらも、一歩を踏み出す物語。尺が短いだけあって、いじめっ子女子や、娘と青年の関係を誤解する娘の母などの造形が一面的で通俗的なものにとどまっている。直せないはずの玩具が直っていたり、青年が携帯電話を持っていたり、またその電話番号を何故か少女が知っていたり、語らずに想像させるのだとしても若干違和感がある細部が多い。

    • 夜空を飛ぶ兎

      • フリーライター

        須永貴子

        ファンタジー部分のヴィジュアルがショボすぎる。予算が少ないなかで工夫を試みる心意気は微笑ましいが、お面や被り物、衣裳、アニメーション、音楽のどれもがあまりにも観賞者の世界と地続きで、異世界感が皆無。平板で薄暗いだけの映像も、ダークではあるがファンタジーではない。存在を否定はしないが、私服姿の役者たちのリハの記録映像もしくはビデオコンテのような本作は、観客のお金と時間を奪う「商業映画」のレベルには達していない。「観て」とは言えない。

      • 脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授

        山田耕大

        なんとも形容に困る一品である。「不思議の国のアリス」を狙ったんだろうか。それとも「オズの魔法使」なのか? ダンサーを夢見る女子が兎を妊娠したと言うが、父親は誰なのか。兎か? その兎もまったく出て来ないので、想像妊娠? だが、医者は妊娠しているという。それでこれまたその医者が女子の幻想世界でのいじわるな門番として再登場する。ファンタジーのつもりなんだろうが、こんな世界を夢見る気にはなれない。観ているうちに、小馬鹿にされているような気になってくる。

      • 映画評論家

        吉田広明

        兎を妊娠するとか、夢の中で夜空を飛ぶ兎を探しに行くというぶっ飛んだ発想、アニメ、影絵、ミュージカルを使用した語り。あまり万人に勧めようとは思わないが、官僚的な発想から遠いこういう映画があることが日本映画の幅を広げてくれる。ヒロインがファンタジー的な旅の終わりに出会うのが、シビアでリアルな現実であることで、民話ないし童話の残酷さに通じる映画と判明する。地味目な女子なのに、踊りだすとオーラを発揮する主演女優の振れ幅、存在感がこの映画を成立させている。

    • グッバイ、リチャード!

      • 映画評論家

        小野寺系

        ジョニー・デップの奔放なイメージを使いながら、ときに倫理観から逸脱する描写をすることで、余命ものに痛快な刺激を与えようとする試みは面白い。だが、ここで表現される解放が、名前も知らない相手との行きずりの性行為であったり、フェミニズムに傾倒する女子学生の思想を否定し改心させる行為だというのは、老年・中年男性の身勝手で保守的な思想の助長に他ならない。このような幼い精神の大人が、いまむしろ体制側になっているというのが、現代の悲劇ではなかっただろうか。

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