映画専門家レビュー一覧
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ゴッホとヘレーネの森 クレラー・ミュラー美術館の至宝
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ライター
石村加奈
展覧会や美術館で肉眼で見る以上に、カメラは、ゴッホの筆頭コレクターであるクレラー=ミュラー夫人のコレクションに贅沢に迫る。有名な自画像の、複雑な陰影の奥に光る鋭い瞳孔や、本作で初めて目にした、素描の老婆の瞳には、作中の言葉を借りれば、伝統的な美ではなく、苦痛に満ちた自然あるいは絶対的な真実(ミュラー夫人もそこに惹かれたのだとか)を追求した芸術家の野心が宿る。船頭が多すぎる(説明過多)のか、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキの存在感が希薄に。勿体ない。
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映像ディレクター/映画監督
佐々木誠
ゴッホは生前認められなくて不運だった、とされているが、才能があっても死後も無名な作家がほとんどの中、資産家へレーネに「発見」されたのは幸運だと思う。彼女はゴッホ作品最大の収集家で美術館まで作った。本作はそのゴッホとへレーネの「運命の関係性」を軸に彼の作品の魅力、二人の波乱の生涯を膨大な資料を基に描いている。絵画鑑賞の醍醐味は、絵筆のタッチから作者の存在、作品の制作過程をリアルに感じられるところだと思うが、そんな肌触りのドキュメンタリーだった。
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愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景 vol.1
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ライター
須永貴子
二人の男性の間で揺れ動くヒロインのユリは、空っぽで、疲れ切っていて、日常の流れに身を任せ、自分に向けられる欲望に応えていく。彼女への共感はまったくないが、白い肌をピンク色に上気させて植物のように感応する、瀬戸かほが演じるユリを見ていると、彼女に強烈に惹きつけられる男たちの気持ちがわかる。魅力的なヒロインを中心に、人と人の間を行き交う感情を丁寧に映像に映し出せば、大きな事件やすれ違いがなくても、恋愛映画は作れるということを証明する一本。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
冒頭からラブシーンで始まる。うまい。二人の愛がどんなものなのか、そこですべて示している。そのあと二人の生活が描かれていくが、常に冒頭の二人のセックスが思い浮かぶ。そのセックスがまさに二人を象徴しているのだ。ヒロインはその後別の男とセックスをするが、そのラブシーンは冒頭のものとはまったく違う。セックスを通じて愛の形の違いをくっきりと見せている。最近流行りの“監督・脚本……何某”というのはほとんどが凡作だが、これは違う。この人は本当に映画を熟知している。
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映画評論家
吉田広明
人妻が、年上の夫のもとを離れて別な男に走る、凡庸な「愛の小さな歴史」。出来事らしい出来事がない作品だけに、繊細な心の動きや変化を演出によって捉えねばならない難しい題材で、その選択自体の勇気は認めるとしても、それができているかと言えば疑問。皺くちゃの詩集や、「木のように触られたい」という台詞など、意味ありげな細部で分かったような気にさせるのは納得いかない。登場人物が三人、話らしい話もなし、雰囲気だけでは、古本好き層でもいささか辛い。
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ドリーミング村上春樹
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アメリカ文学者、映画評論
畑中佳樹
村上春樹は登場しない。春樹を思い、その作品をデンマーク語に翻訳するメッテ・ホルムが、自宅で仕事に没頭したり、日本を旅して春樹ゆかりの地を歩いたり、仕事仲間と議論したり、まあまあありがちな場面が連なるが、日本シーンではカエルくんが空間の中にぬっと現われて、なんともいえない気持ち悪い声で日本語のモノローグを読む。春樹のわからなさ、いつまでも飲み込めない異物感のようなものが、この声に結晶したかのようだ。日本という異文化はこんな匂いがするのか。
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ライター
石村加奈
外国(日本・東京)のホテルの窓外に広がる街の夜景に映り込む、幽霊のような女性(本作が追いかける、デンマーク人の翻訳家メッテ・ホルム)のシルエット。冒頭シーンを見ただけで、ニテーシュ・アンジャーン監督が、村上春樹のよき理解者であることがよく伝わってくる。ムラカミ・ワールドから飛び出してきた「かえるくん」の声にはいささか面食らったが、メッテの旅が進むにつれて、愛猫に拮抗する存在感を発揮するのはさすがだ。ザ・ヴェルヴェッツ〈愛しのラナ〉の選曲もナイス。
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映像ディレクター/映画監督
佐々木誠
村上春樹の小説のデンマーク語翻訳者で知られるメッテ・ホルムが彼のデビュー作『風の歌を聴け』の翻訳に悪戦苦闘する姿を追うドキュメント。猫やピンボールマシン、首都高速が出てきたり、ホルムが芦屋や上野などを訪れ、バーやデニーズで語ったり執筆したり、ハルキストにはたまらないシチュエーションが続く。さらには進行的な役割でCGのカエル、二つの満月なども登場する。その例の「パラレルワールド」に重ねるような実験的な演出は村上作品と同様賛否、好みが分かれるだろう。
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スペシャルアクターズ
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映画評論家
川口敦子
金太郎あめ状態著しい日本映画の昨今、「解放区」とも通じる知らない顔の俳優たちの魅力はある。とりわけ「FRANK」のM・ファスベンダーのかぶりものの表情を想起させる大澤数人の定まらない視線とすわった目の交錯は「演技を感じさせない演技」の演じ方として面白い。前作同様、撮影曽根剛の貢献度も無視し難い。が、映画としては幼稚な思いつきに終始していて、最終地点も透けて見える。遊びだけじゃないのよ映画は――なんて、今さらなことを真顔でいいたくなった。
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編集者、ライター
佐野亨
それなりに楽しく観始めたものの、だんだんと虚しい気持ちになり、ラストには怒りをおぼえた。ここには作劇はあっても物語がない。だから目先のトリックやサプライズを優先するあまり、主人公の人生(物語)は作劇の道具として容易く蹂躙されてしまう。それでも「演じる」という内的能動性のうえに作劇が展開されるならまだよいが、結局はワークショップによって選ばれた役者の「見た目」に役柄を型はめして、動かしていく以上の工夫がない。つまり、演技はあっても映画がないのだ。
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詩人、映画監督
福間健二
主要な出演者十五人を先に選び、脚本作りをアテ書きでゼロからスタート。全員がアイデアを出したというが、上田監督でなければやれそうにないことがほとんど。無名の役者という存在。その能力の発掘・活用と、演技の虚実にゲームを仕掛けることは、別のことだが、ここでは切りはなせない。とても独特に。サービスの心が現場から働いている。愛だとしたら何への愛だろう。そのヒントとなるように、作品の真ん中には、弟が兄を思う、似ていない兄弟がいる。画と音への不満は残る。
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駅までの道をおしえて
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ライター
須永貴子
犬のリードを引くような仕草で、少女が独りで町を歩き回っている。愛犬ルーの喪失を悲しむ彼女の心情が十分に伝わる冒頭の数分に比べ、その後の展開がやや冗長で単調。しかし、ルーが好きだった電車を使ったファンタジーに類するクライマックスで合点がいった。これは大人のための映画というよりも、子供が犬との暮らしや、お別れをどう受け入れるのかを学ぶための絵本。犬好きとしては、人に媚びずにのびのびと動き回る姿を撮ったドッグ・ファーストな演出に★をプラス。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
その昔、賞を総なめした某映画を配給した会社の人に、「この映画を観て泣かない人は人間じゃない」と言われたことがある。僕は泣けなかったので、人間ではない。人間じゃなかったら、せめて鬼ならいいのにと思う。「鬼の目に涙」、僕はそんな涙を映画を観て流したいのだ。名子役と世界的演劇人と犬、原作は伊集院静なら、欠けるもの何もない。泣けない人は確かに人間じゃないかもしれないが、僕は泣けない。お膳立てが見え過ぎてしまうのだ。ひねくれ者に生まれてすいません。
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映画評論家
吉田広明
愛犬が亡くなったことを納得できない少女が、息子を亡くしたことを納得できない老人との出会いと交流を通して、その死を受け入れるまで。十年後の自分のナレーション、記憶、霊、幻の電車など、時空間が錯綜する構成で、確かに飽きさせないのだが、十年後の自分と物語の過去との関係がよく見えないのはどうか。作りが丁寧と言えば言えるのだが、情感を演出しようとして思い入れたっぷりの場面の連続で、見ていて飽きてくる。ヒロインがいい子過ぎるのも単調で詰まらない。
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楽園(2019)
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ライター
須永貴子
閉鎖的な地方の町を舞台にした、壮絶な魔女狩りと村八分に、人間の残酷さと弱さ、愚かさが浮き彫りになる。そんな世の中だからこそ自分の“楽園”を求めて生きろ、という作品のメッセージを背負う杉咲花の繊細さと野性味を兼ね備えた存在感は、焼け野原に一輪だけ咲くシロツメクサのよう。彼女に思いを寄せる青年のアプローチがほぼストーカーの発想であるなど、そこかしこに人間の恐ろしさが垣間見えるサスペンス。ミステリーとしては、真実の提示の仕方に困惑してしまった。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
14年前に起きた栃木小1女児殺人事件を思い出す。中国人の母を持つあの事件の被疑者は、一審、二審とも無期懲役にされているが、冤罪だとしか思えない。どうしてもそんな目でこの映画を見てしまう。犯人と見なされた青年、村八分にされた養蜂家、共に殺人を犯したようなのだが、納得のいくような動機は示されない。ステロタイプの人物が型通りの台詞を吐いたりするが、一時も気を逸らさせないのは、かなりのワザである。だが、この映画の中に人は何を見るんだろう。
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映画評論家
吉田広明
二つの違う話を合わせたような、と思ったら二短篇の組み合わせだった。しかしあまりうまく?み合っていない。ともに周囲の悪意によって追い詰められる男の話だが、一方は外国人・貧困差別、もう一方は村八分とその意味が違い、悪意の輪郭がぼけて強く迫ってこない。それを期待されるのかもしれないが、無理やり接合して群像劇にせず、どちらかに絞って丁寧に掘り下げた方が良かったのでは。真犯人があの人として、その後の年月をどんな思いで生きたかは暗示でも描いてほしかった。
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ガリーボーイ
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非建築家、美術家、映画評論、ドラァグクイーン、アーティスト
ヴィヴィアン佐藤
そもそもヒップホップとはアメリカのエスノマイノリティのコミュニティのブロックパーティから派生した文化だが、この作品はその源流に遡行することはない。あくまでも個人や家族との軋轢が原動力。しかし世界中のヒップホップを武器に戦っている若者たちは、その歴史性や批評的態度ではなく、日常の声にはならない叫びをビートに乗せているのだ。その意味ではここでの描写ははリアルだ。しかし作品世界は悪い意味でアメリカ化されたもので、インド映画のリアルな現状が伝わる。
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フリーライター
藤木TDC
中年男がひとり観るにはつらい映画だ。主人公がスラム出身でインドでは少数派のムスリムなのには同情するが、親の金で大学通い、高そうなスマホ使って複数の女とイチャイチャ、一度の出会いで才能が認められ、突然パトロンが現れ作ったPVがいきなりバズる超恵まれ人生。メジャー進出に致命的障害のはずのワル友まで自ら犠牲になり応援とはあまりに幸運で、主人公が格差社会を恨みライムする理由がさっぱり分からん。俺が若い頃の貧乏四畳半生活を小一時間聞かせてやりたい。
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映画評論家
真魚八重子
インドの階級差や貧困の負の連鎖を端々で捉えながら、基本的には王道的な才人の出世物語。主人公はスラム街では珍しい大学通いによってラップに出会い、才能を認められて録音場所が確保できるのは裕福な友人のおかげであるなど、批判性と現実的な世知辛さが同時にあるのが本作の正直さだ。妻と同宅する妾の悪意なく事を荒立てない態度や、女性が強制結婚で学業の機会を奪われそうになる演出のほか、若い娘の粗暴な嫉妬深さがチャームポイント的な扱いなのも女性監督らしい演出。
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