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セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン
【モンタージュ理論の実践者】ラトヴィアのリガ生まれ。父は建築家。1915年、ペトログラードの学校に入学する。革命時に赤軍に加わり、ポスター画家としてミンスクに派遣された。20年にモスクワの労働者劇場で背景画を描き、やがて演出も手がけるようになる。翌年、メイエルホリドのワークショップに入り、「長靴を履いた猫」のデザインを手伝う(のちに彼はメイエルホリドを“精神的な父” と呼んでいる)。23年、初めて舞台を演出し、またフリッツ・ラング監督の「ドクトル・マブゼ」(22)ソ連公開版のために再編集の仕事を手がけた。24年からは演劇よりも映画に傾斜し、モンタージュ理論を応用した「ストライキ」を撮る。このモンタージュ理論は17年にレフ・クレショフが唱えたのが初めだが、エイゼンシュテインのモンタージュ理論は異なった要素の衝突によって新たなアイディアが生まれるというもので、彼が習っていた日本の文字から発想を得たとも言われている。25年にロシア革命20周年記念として製作を依頼された「戦艦ポチョムキン」を発表し、エイゼンシュテインの名はもちろん、世界にソ連映画を知らしめることになった。28年には「全線」の撮影を中断して、十月革命10周年を記念した「十月」を監督、終了すると「全線」の製作に戻り29年に完成させる。だが、共産党の政策が変わり、トロツキーが失脚したため、トロツキーの場面を削除するなどの再編集を余儀なくされ、「古きものと新しきもの」として公開された。以来、共産党政府と政治的にもめることが常となる。【ソ連、アメリカの両国でトラブル発生】29年、グリゴリー・アレキサンドロフ、カメラマンのエドゥアルド・ティッセとともにハリウッドに出向き、トーキーを研究。30年にパラマウントと契約して渡米するが、“赤の豚野郎”と攻撃され、「宇宙戦争」などの企画はつぶれ、国務省から労働許可を拒否され……といったぐあいで、さんざんな目に遭う。左翼系の作家アプトン・シンクレアの出資で30年末から「メキシコ万歳」の撮影に取り掛かるが、32年1月にシンクレアは進行の遅さ、コスト増に嫌気がさして、三分の一のところで撮影を中止させた。アメリカへの再入国を拒否され、32年5月ソ連に戻った。33年からモスクワの映画学校で教え始める。35年に、集団農場コルホーズが生んだ世代間の軋轢を描く作品「ベージン草原」の企画が立ち上がるが、製作中止を命じられた。38年から再び映画が撮れるようになり、「アレキサンドル・ネフスキー」は短期間で製作される。44年に「イワン雷帝」の第1部を完成させ、この作品でスターリン賞を受賞。第2部はイワンとスターリンとの類似性から58年まで公開が延期されていた。「イワン雷帝」の第三部をカラーで撮る企画の準備に入るも、実現しないまま、48年に病没した。
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