映画専門家レビュー一覧
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プリズン・エスケープ 脱出への10の鍵
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ライター
石村加奈
木片を集めて作った鍵で、鉄製の扉を次々と突破し、仲間とともに見事刑務所を脱出した、実在の政治犯ティム・ジェンキンの脱獄劇。ティムに扮するダニエル・ラドクリフの激変ぶりに驚かされた。“良心の囚人”役イアン・ハートがチャーミングだ。「怒りは抑えろ。外の世界を思い出してしまう」と重い科白をさりげなく吐く。刑務所を脱出する者、留まる者、それぞれが迎える朝が清々しい。刑務所が舞台とあって、鉄格子を想起させるライティングの中で、脱獄犯たちの光る目も印象的。
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映像ディレクター/映画監督
佐々木誠
70年代の南アフリカ、反アパルトヘイト活動に参加した白人たちを収容している刑務所が舞台の実話。恵まれた暮らしを捨て、闘い、捕まった彼らの脱獄計画、その行動自体が彼らの抵抗運動であり意思表示だ。それは、今のBLM運動、そして香港で闘う若者たちの姿と重なる。D・ラドクリフが良い。自らのイメージを逆手に取った近年の役選びが抜群だが、今作では淡々と計画を進める実在の人物を演じ、その内に秘めた熱い思い、滲み出る生き様を体現している。
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新しい街 ヴィル・ヌーブ
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非建築家、美術家、映画評論、ドラァグクイーン、アーティスト
ヴィヴィアン佐藤
ジョセフが海辺への道中、歯が一本抜ける。全篇が物質を口内で?み砕き消化するという感じではなく、ピノキオの鯨の胃袋の中にいるようで、虚実、昼夜、過去未来が溶解されていく。未来とは常に草臥れた疲労状態にあり、眠りに陥る経験ではないか。アニメーションとは意志の表現であり、その作画やテイストこそが物語を強く伝える。ダヴィンチは水の表現を生涯追求したが、揺らめく水があらゆる形態として登場。銅鐘ですら高温では液体となる。解答のない心地よさに酔いしれた。
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フリーライター
藤木TDC
アニメーションで中年男の孤独と向かい合おうとは思いもよらず、意外性に高揚した。絵コンテがそのまま動き出したようなフリーハンドな画風は物語の私小説的世界観を鮮明にする目的で、初めから虚構性の強調と定型のタッチが埋め込まれた日本製アニメと本作では方法論に根本的な違いがある。R・カーヴァーの原作は村上春樹が翻訳、映画にも村上的な微温感が満ち、ほとんどアニメを見ない私でも引き込まれた。珍しさで得している部分もあるが、実写映画のように楽しめる。
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映画評論家
真魚八重子
長篇アニメといっても、果たしてこの作品は本当に動いているといえるのだろうかと考えてしまった。観念的なセリフと墨汁で描かれたヘタウマなタッチは、相殺しあって曖昧になり頭に入ってこない。独立という主題にまつわる物語のはずなのに、観ている間、何が独立なのかの座標軸が見えないし、心を揺さぶるような取っ掛かりがないのだ。基本的に2020年現在において、様々なアニメが緻密さを極めようとする流れの中では、テーマに対しこの絵柄は従順でパンチが弱い。
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東京バタフライ
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映画評論家
北川れい子
よくある設定。よく聞く台詞。お馴染みの挫折。おなじみの未練。過去にケジメをつけるためのレコーディングもいつか見たシーン。そういう意味では、これからも繰り返されるに違いない普遍的な青春映画ではある。けれども、このシーンの後はこうなるだろうなと思っていると、台詞までほとんどこちらの予想通りで、うーん、困った。1990年生まれという佐近監督の身近な題材なのだろうが、燃焼しきれないまま現実と妥協するとは、30歳、早すぎる。ムダに長回しが多いのも気になる。
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編集者、ライター
佐野亨
白波多カミンと松本妃代、この二人の表情(以前に顔立ちだろうか)がもつ豊かな「含み」が、語られていること以上の背景を観る者に読ませてしまう。それにくらべると、男性陣は一様に茫洋としていていまひとつ面白みに欠ける。それぞれの生活を歩み始めたバンドメンバーが、いかなる感情の変化を経て再集結を果たすかが物語の肝だろうが、そもそもなぜ彼らが音楽に執着するのか、その依って来るところがわからない。生活と音楽、もっと根源的な部分でつながっているはず。
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詩人、映画監督
福間健二
勝負は、現実にシンガーソングライターである白波多カミンの魅力をどう見せるかだったろう。細身、控えめ、幼そうな感じと芯のつよさの同居など、言ってしまえばフェアリーテール的なものを呼び込んでいるのに、話の展開は現実の大変さに対して飛ぶところがない。でも負けっぱなしでは終われないね、というもの。佐近監督、手堅すぎる。最後の歌がもうひとつ迫ってこない。音楽、なぜやるのか。「根拠なき使命感」という言葉が放たれる。それを映画の表現として叩きだしてほしかった。
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喜劇 愛妻物語
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フリーライター
須永貴子
着地点からして夫婦のいい話に見えるけれど、人間の打算や狡猾さが台詞や表情から読み取れる。例えば、「俺だってがんばってるもん」という豪太の台詞。妻でなくても「どこがだよ!」とツッコミたくなるところだが、実際に彼はがんばっているのである。せっかく捕獲した働き者の妻に見捨てられないギリギリのラインで、どこまで怠惰な生活をするかという、生きるか死ぬかの戦いを。表裏一体の愚かさと愛しさから目をそらさずに笑いに昇華する、強烈な人間コメディ。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
嗚呼、身につまされる!! これを観て、そう思う人はかなりの数に及ぶはず。妻の口撃は本当に容赦ない。傷口に塩を塗るどころか、傷口をさらに広げて砂でも詰められるが如きである。新藤兼人の「愛妻物語」からのなんたる隔たり! が、のべつ幕なしに夫を罵倒しまくる妻は、ダメな夫のために全てを投げ出している。水川のおばさん体型は役作りのために体を太らせたのだろう。顔もすっぴん。これが役者なのだ。「幸運を呼ぶ赤いパンツ」を決して脱がない妻は崇高にさえ見えてくる。
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映画評論家
吉田広明
売れない脚本家の夫と愛想をつかしかけている妻の、スケールの小さすぎる口喧嘩で映画の大半が占められているのだが、あまり飽きないのはロード・ムーヴィーという枠組みの採用が寄与している。俳優の存在感、夫婦の過去などの背景の開示で緩急をつける脚本の上手さもそれを補助した。情けなさ過ぎての号泣が、その情けなさゆえに笑いに変わる場面が白眉。ただ、ご無沙汰の妻といかに性交に持っていくか、その駆け引きのしつこさに少々食傷、夫の小ささを示す別のアイディアが欲しい。
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チィファの手紙
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非建築家、美術家、映画評論、ドラァグクイーン、アーティスト
ヴィヴィアン佐藤
脚本も手掛けた監督が間髪入れず、異なる国でセリフまで全く同じの映画を二本撮ったなんて前代未聞。これは単体で鑑賞するのではなく、やはり両翼、鏡像として見るべきだろう。全く同じ様な出来事や体験が別の世界でも起きているかもしれないという事実。これは可能性のある現象である。昔、ロンドンのクラブをハシゴした際に、日本のドラァグクイーンたちとほぼ同じ立場のクイーンたちがいて驚いた。その中にはロンドンの「ヴィヴィアン佐藤」もいたのである! 世界はパラレルだ。
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フリーライター
藤木TDC
「ラストレター」と同じ脚本の中国版なので、日本版を見ていないか、比較に意味を感じるなら見る選択はあり。中国版は映像の陰影が深く日本版と味わいが違う。また俳優が抑えた演技をしていて、アイドル俳優がテレビドラマ調の演技をする日本映画が苦手な人にも向く。善良な美男美女のナイーヴ純愛劇を私のような縁のないハゲ中年がディスると全て嫉みと思われそうだが、男性主人公の一女性への長年の執着には違和感を禁じ得えない。私が映画と同じ挙動をしても許されるだろうか?
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映画評論家
真魚八重子
軽やかな演出や映像でありながら、端々に重く暗い影がチラチラよぎるという、極端なバランスで均衡を保つ作品。モラハラや一生引きずる失恋、大事なものとして扱われる古い手紙が呪縛のように登場し、そういう岩井俊二らしい偏執的なモチーフがくすぶりつつも、やはり透明感には魅了されてしまう。相変わらず少女がフィーチャーされるが、男性二人の話し合いや少年の喪失感を描いたシークエンスが絶対的に面白いので、少女以外の手段を使い男性の世界を撮ってほしいと思う。
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窮鼠はチーズの夢を見る
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映画評論家
北川れい子
劇映画を観察する、というのも妙な言い回しだが、ドキュメンタリー作家・想田和弘の、いわゆる“観察映画”を観ている気分だった。ナレーションも音楽も一切使わず、ただその土地に暮らす人々を被写体にした作品。いや本作には説明台詞もあるし、控え目ながら音楽も使われているが、2人の男優が演じる手のかかる追っかけっこを、ひたすら見せられているだけ。つまり、2人の役どころは、都会という水槽を泳ぎ回っている観賞魚並ってワケで、女たちは水槽の中のお飾り。
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編集者、ライター
佐野亨
達観と焦燥のはざまで揺れ動く微細な感情の変化を映画の画面のなかでたおやかに見せる成田凌、その役者としての華にあらためて感服。成田の胸を借りるかたちとなった大倉忠義も、一つひとつの所作をだいじにした演技で映画が伝えようとしている空気感の醸成に貢献している。行定監督と俳優陣の相性の勝利。ラスト近くの成田のことば、「あなたは愛してくれる人に弱いけど、結局その愛情を信用しないで、自分に近づいてくる相手の気持ちをつぎつぎ嗅ぎまわってる」。ドキリとした。
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詩人、映画監督
福間健二
一三〇分の尺。四〇分でもう息切れかとも感じたが、そこから先をなんとか粘るのが行定監督のプロ根性。大倉忠義演じる恭一は、モテる。如才ない。世間を怖がらない。キャラクター的に「あり」だとしても、惚れたくはない。でも惚れてしまったのが成田凌演じる渉。彼には、甘く言うとウォン・カーウァイやロウ・イエの世界でも通用しそうな魅力がある。二人の恋のじゃまをすることになる女性陣は、結局、フェミニズムの視点からも抗議を受けそうな、おとなしいか便利かという動き方。
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妖怪人間ベラ
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フリーライター
須永貴子
不穏な展開を予感させる意図的なロングショットや、『妖怪人間ベム』の「お蔵入りになった最終回」の謎に期待が高まる。まずは女子高生の沙織が、続いて広告代理店の康介が、ベラとの出会いを契機に狂っていく。2人の俳優による狂気の表現は力強く、特に森崎ウィンが演じる康介の、昆虫のように予測不能な動きが周囲に与える恐怖表現は発明の域。しかし、よくよく考えるとベラは何もしていないのに、2人は勝手に狂っていった。妖怪人間が人にどう作用したのかが最大の謎。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
テレビアニメの『妖怪人間ベム』が始まったのは、今から50年以上も前だが、いま妖怪人間女子のベラを主人公に蘇った。某女子高の転校生として教室に出現するベラ。顔を覆うような漆黒の前髪を垂らした刺すような目をしたベラ。それだけで、もうわくわくしてきた。友達を装った同級生の陰惨ないじめに心地よくしっぺ返し……と思いきや、話はベラに魂を奪われて凶暴なモンスターと化していく男の話になっていく。ベラをこそ見たかったのに、なんたる肩透かし! 残念、無念!!
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映画評論家
吉田広明
お蔵入り最終回に映っていたベラの、何か言っている口元。それが何だったのかという謎に始まり、旧帝国軍の施設に話が進む展開は、「女優霊」や「CURE」を連想させるが、実際脚本が立教系の人だった。ベラの哀しい物語になるのかと思いきや、ベラの周囲、特に最終回を掘り出そうとしたソフト会社の社員が狂気に陥り、家族を襲う「シャイニング」的展開。主人公の狂気演技が暑苦しく、「全員気が狂う」というキャッチなのだから彼にこだわらずもっとオムニバス的に展開してもよかった。
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