映画専門家レビュー一覧
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鵞鳥湖の夜
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非建築家、美術家、映画評論、ドラァグクイーン、アーティスト
ヴィヴィアン佐藤
「薄氷の殺人」同様にアジア的色彩の持つ深淵に蠢く不可視の人間模様。ひと昔前のリゾート地が持つ独特な不法アジール感。二日目の豪雨は鵞鳥湖がひっくり返ったように、湖面、敵味方、善悪の彼岸が臨界を迎える。前作は男性性の復権、今作はある意味女性性の自立・復権。犯罪現場とは倫理の侵犯であると同時に、性の侵犯も起こりやすい。前作の物語の中心的なアイスリンクが溶解し湖となり、同様にそこに漕ぎ出した小舟の上には、もはや名前や役職のない純粋な人間だけがいた。
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フリーライター
藤木TDC
古い日本映画の愛好者なら鈴木清順だ、石井隆だ、石井輝男だとニヤニヤワクワクしながら画面に釘付けになるだろう。ヤクザと娼婦の悲劇的道行きというVシネマ的題材を中国の荒んだ地方都市を背景に格調高く変奏するハードボイルドだが、オマージュ一辺倒ではなく、現在にしかありえない独特な“中華ノワール”の世界を強固に確立していて引き込まれる。同じ監督の前作「薄氷の殺人」以上にヒロインが薄幸で貧相、しかも成人映画まがいに乱される姿もオッサン客の溜飲を下げるはず。
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映画評論家
真魚八重子
撮影のシルエットと光を通したカラー、空間の使い方は素晴らしい。しかし「薄氷の殺人」のギリギリなんとか理解できる語りすぎない話法が、本作ではあまりに不親切になり、意味不明な部分を多くはらむようになっている。良い意味で田舎臭かった前作と違い、アート色の強い演出はATG作品のようで逆にダサい。グイ・ルンメイの魅力だけで引っ張るのも難しく、意外にも作り手の本質が窃盗団の男と娼婦の出会いという、ありがちなドラマへ置きに行くタイプなのが露わになった。
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友達やめた。
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フリーライター
須永貴子
監督と友人のまあちゃんが、アスペルガー症候群であるまあちゃんを知ろうとするうちに、いつしか監督は自分に向き合い、観客は他者の理解と受容について考えさせられる仕組みになっている。2人のコミュニケーションの齟齬にハラハラするも、毎回監督の家の玄関をまあちゃんが笑顔で開けるショットでリスタート。何度も切り取られるこの玄関のショットが、人間関係の真理を捉え、映像に独特のリズムを与えている。2人の日記から抜粋した手書きの文字もチャーミングな彩りに。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
「ああいう人って人格があるのかね」と元都知事は障害者のことをそう言った。「LGBTは生産性がない」という女性議員の発言は、「意思疎通のできない障害者は人間じゃない」と19人殺した植松聖につながる。日本はどこまで劣化するのか。それに引き換え、「優性思想は私も持っていると感じる時があるから、怖い」と話すまあちゃんの発言のなんと知的な希望! 聴覚障害の彩子監督もうつとアスペが共生しているまあちゃんも可愛い。虚飾なく自分を生きている人はそれだけで魅力なのだ。
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映画評論家
吉田広明
台湾に一緒に旅行に行ったアスペのまあちゃんが、台湾はいろんな人がいるから緊張しなかったという。逆に言えば日本は単一なのだが、それは「普通」を強いてくる社会ということだ。その普通を自分も相手に(自分にも)無意識的に基準としていないかと監督が気づく。その瞬間から監督自身も画面に映りだし、自身被写体になる。マイノリティ自身も内面化している普通=優性思想。監督は二人にとっての常識=普通を探りなおす。普通は一様ではない。「友達」は優性思想への抵抗になる。
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セノーテ
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映画評論家
北川れい子
薄暗い洞窟の中、生き物のようにうごめく水の重量感に圧倒される。小田監督は、長篇デビュー作の「鉱ARAGANE」でも黒光りのするズシンとした映像で、ボスニアの炭鉱とそこで働く人々を美しくも厳粛なタッチで記録していたが、今回はマヤ文明の伝説の洞窟湖に集中的にカメラを向け、そこから過去に遡る。延々と続く微かな光の中での水面と水中の映像は、ある種の催眠効果をもたらし、ちょっとウトッとしそうになったが、と突然、奇跡が! リアルなアートフィルムの秀作だ。
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編集者、ライター
佐野亨
『夢の島少女』などの作品で知られるTV演出家の佐々木昭一郎にインタビューした際、「私の作品はよく〈映像詩〉と評されるが、自分では〈ジャーナリズム〉だと思っている」と語っていたのが印象的だった。小田香の作品も然り。8ミリフィルムで撮られた人間のいとなみと、iPhoneで撮られた人智を超えた水中の世界。その上にマヤ演劇のモノローグがかぶさる趣向。自然の恐ろしさと人間の歴史がはらむ残忍さにフォーカスした、紛うことなき〈ジャーナリズムとしての映像詩〉である。
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詩人、映画監督
福間健二
撮れている、と思った。洞窟の泉。そこにどういう未知があるのか。幻覚的な体験に誘い込まれるが、カメラの呼吸が現在からの糸を意識させる。一方、それとは異質な、人々をフィックスでとらえた映像。映画史をさかのぼるような、触られていない顔だ。そして言葉。いま生きる人々の聞いたことや体験したことだけでなく、マヤの伝統を守りぬくための劇のセリフが転用される。それが大きく呼び込むものが効いた。小田監督、ひとつの作品を作るとともに映画の力にゼロから出会っている。
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アボカドの固さ
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フリーライター
須永貴子
元カノの幻影を追いかける24歳の青年が、友人や仕事相手、デリヘル嬢らと、恋愛談議を繰り広げる。主人公は一切自己批判をしない自己愛の強いキャラクター。映像は固定ショットの長回しを多用。恋愛談議にはアルコールが欠かせない。以上の特徴から、ホン・サンスの影響を強く感じた。粘度の高い主人公を、俯瞰で捉えて湿度低めに描くことで、微かなユーモアをにじませる。画作りは塩が一振り足りないが、ラストショットがとても鮮やか。終わりよければすべてよし。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
優しさしかない男は捨てられる。優しさの呪縛に息が詰まり、このままではダメになってしまうと女子は思うのだ。前原を捨てた「シミちゃん」等女子たちはみな自分を持っているが、前原は自分が何者かもわからず、自分を作ろうともせずにただ悶々と生きている。実話を基にしているだけあって、あまりのリアリティに気が塞がってくる。この時代に生きている男はみんな前原のようなもの。ラスト、前原が微笑むのは希望を手にしたからではなく、絶望と折り合いをつけたからだと思う。
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映画評論家
吉田広明
五年越しの付き合いの彼女に振られた男が、一か月様子を見る。やさぐれてみたり、仕事で知り合った女性に言い寄ってみたり、風俗に行ったり、彼女とうまくいった友人に絡んでみたり、とりとめない出来事、微妙な感情の揺れ動きが淡々と描かれて、それでもそれなりに見ていられるのは、本人の体験だという主演俳優の、イタいが愛嬌のある存在感によるだろう。拘束される映画館だからこそ成立する作品ながら、不意に出来事が生起する映画的瞬間があるかと言えばそれも疑問ではある。
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おかえり ただいま
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フリーライター
須永貴子
ドラマとドキュメンタリーのパートがうまく?み合っていない。被害者家族の在りし日の幸せな姿や、加害者の不幸な生い立ちを再現したドラマで観客の情感に訴えてしまっては、観客が作品のテーマに向き合う際に、不要なバイアスがかかってしまう。再現ドラマなどなくても、資料映像や関係者の証言で、過去に何があったのかを観客に伝えることはできるはず。ドラマとドキュメンタリーのおいしいとこどりをしようとした本作は、双方をなめているし、観客の想像力を見くびっている。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
この事件のことを書いた本を二冊ほど読んでいた。殺されてもなお何かを守ろうとする利恵さんの強さに心が揺さぶられた。いろいろなものを一つ一つ大切に積み上げてきた利恵さんを、何も積み上げてこなかった男たちが軽く思いついたような感じで残忍に殺していく。この理不尽に憤りを抑えられない。前半は幼児から事件に至るまでの利恵さんの人生をつづったドラマ。後半は母・富美子さんを追ったドキュメンタリー。ドラマは事件のその日のみに凝縮するべきではなかったのか。
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映画評論家
吉田広明
事件の重大性、被害者遺族の心痛は重々承知、しかし映画としてどうかという評価はまた別ものだ。被害者、加害者の過去を追うドラマ部分、事件までのカウントダウンで描くのでは、偶然やタイミングなど、次にどうなるか分からない現実の持つ揺らぎが捨象され、起こるべく起こったように見えてしまう。事件が起きてしまうには何か飛躍があるはずで、事実を時系列で追うだけでは見えてこないその飛躍への肉薄が見たい。ドラマ化するのはいいがドラマの弱さが映画を弱くしては元も子もない。
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ヴィタリナ
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非建築家、美術家、映画評論、ドラァグクイーン、アーティスト
ヴィヴィアン佐藤
カーボ・ヴェルデから亡き夫の幻影を追ってリスボンのスラム街ファンタイーニャス地区へやってくるヴィタリナ。一貫してファンタイーニャス地区が舞台であるコスタ。かつてカーボ・ヴェルデと言う島の名前をクリス・マルケルで知った。奴隷貿易で有名なポルトガル領だ。その土地に折り畳まれた歴史と記憶。ヴィタリナは既にこの世に居ない不在の夫に寄り添う。しかし内面は憤怒と失望が横溢。次第にそれらがが消えていくとき、夫の不在は非在だったことに我々は気づくのである。
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フリーライター
藤木TDC
娯楽作を求める観客には用のない芸術映画。が、映像を闇とモノトーンで設計し、音響を極力排して画面と客席を有機的に接合させる演出には現代美術鑑賞に似た緊張と刺激を感じた。長編詩のような抽象的物語ではあるものの、ゲットー、底辺労働、監獄、地下水道など大都市の暗黒面のイメージを通し格差問題やメメント・モリを痛みと共に伝える。メッセージが鋭く刺さるほどに、こうした作品をエアコンの効いた快適な劇場で優雅に見て語るべきかのジレンマがつきまとうのだが。
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映画評論家
真魚八重子
ペドロ・コスタの家シリーズの極みというか、狭い室内で人生が全うされる究極の世界だ。コスタも昔は、撮影機材にこだわりを見せず、ノイズが入った映像をかけていた作家だったのに、本作は各ショットの構図がベラスケスの絵画のようにキマッていて完璧。黒から褐色への暗い色調の変化と微かな光も、人間や男女にとって原初的な物語も、研ぎ澄まされた到達感を覚える。ただアート色の強い作風ゆえ、本当に静止している画面が多いので、気軽に対峙できる作品ではない。
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ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)
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映画評論家
北川れい子
やたらに“昭和”を持ち出すつもりはないのだが、ジャズという音楽を含め、場所、空間、機材、そしてマスターや常連のミュージシャンたちの顔、表情、ことばを含め、丸ごと昭和が息づいていて、ちょっと感傷的になってしまう。コーヒーにタバコの煙、壁一面のレコードジャケット……。ジャズを聴くことが、当時の若者たちの通過儀礼でもあったのだ。クラシックを流す名曲喫茶なども同じだろう。カッコいい音にこだわるマスターの信念もカッコ良い。ただ回想的?すぎる気も。
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編集者、ライター
佐野亨
ジャズのまち・横浜に暮らしながら、ジャズ文化圏の醸し出すムードにどこか距離感があり、貧弱なオーディオシステムにデジタル音源を流し込んで聴いているような人間にとっては敷居の高いドキュメンタリーであることはたしか。しかし菅原正二はじめ、いわゆる数寄者たちのことばに宿る歴史、「音の輪郭」ならぬ「人生の輪郭」に触れる瞬間はやはり感動的なものがある。全体の編集構成と画面処理、TV的な据わりのよさに傾きすぎで、映画としての拡がりがもうひとつほしい。
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