映画専門家レビュー一覧
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餓鬼が笑う
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映画評論家
北川れい子
夢野久作的な歪んだ妄想と、つげ義春世界を思わすリアルな不条理が追いつ追われつする奇妙な作品だが、その割に後味は悪くない。路上でガラクタまがいの品を売っている骨董屋志望の若者が、記憶という落とし穴的な迷路で右往左往。彼が出会う看護師娘のエピソードや、彼を山奥の骨董競り市に連れ出す叔父さんの虚々実々。この競り市シーンがまた小気味いい。痛いエピソードをシレッとただの迷走、妄想にしてしまう語り口もスリリング。こちらを惑わすキッチュな映画は大歓迎だ。
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映画文筆系フリーライター。退役映写技師
千浦僚
ひとつ難癖つければもう少し滑稽さがある方が主人公の地獄巡りが深まったのではと。格好のつかぬ、西村賢太、町田康の域に。骨董品の競りの場は近年稀な味わいの、新たな映画的シーンの発見だった。また役者がみな素晴らしい。萩原聖人、片岡礼子の凄み。さらにそれを追うインディピラニア軍団とも言うべきこれからの役者陣がスクリーンを埋め、主人公を小突きまわす。もっと彼、彼女らを観たい。私も捨てれば楽なこだわりを捨てきれぬ偏屈貧乏人。ゆえに本作の味方だ。
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戦慄のリンク
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映画評論家
上島春彦
ホラーかと思ったらネタバレ厳禁サスペンスで紹介が難しい。しかし冒頭揺れる波間に人間の顔が浮かび上がったり、ダブル・ミーニング絵画として有名な「髑髏と鏡の女」を再現したり、画面の凝り方は評価できる。原作者は、あるいは綾辻行人の新本格推理から影響を受けているのかな。主要登場人物の本名とネット上のハンドルネームの食い違いが面白い効果。これ以上は書かない。小説(文字)がカギであり映像じゃないのだが画面ではネット動画の拡散みたいな印象。却って中途半端。
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映画執筆家
児玉美月
既視感しかえられず、面白みを見出せない。ネット小説と現実がリンクし合う恐ろしさも、現代では目新しさに欠けてしまう。「ネットに夢中になってはいけない」というメッセージにしても、プロパガンダ的なものを感じてしまった。中国資本による制約がかかった映画であっても、たとえば公開時期の近いところでは「シスター 夏のわかれ道」など、それを巧妙にかいくぐって高いクオリティで仕上げている作品や、むしろ逆手にとって面白くしている作品なども多数あるので余計に。
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映画監督
宮崎大祐
中国製作なので色々なしがらみがあったことは想像に難くない。しかしこれではいかんせん古い。既視感のある演出の雨あられである。そもそもJホラーは非西洋的な脈絡のなさ、わからなさに面白さがあったように思うのだが、近年筆者が散見するJホラー的なものはどうもそのわからなさや脈絡のなさをつきつめずに開き直っている節があるように思われる。伝統芸能に堕したとでもいうか。ちなみに、添付されていた監督による制作日誌は日中の映画制作の違いが見え、この上なく面白かった。
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死を告げる女
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米文学・文化研究
冨塚亮平
神経症と精神分析に代わり、ホラーの設定に解離性同一性障害と催眠療法を取り入れようとする試みは挑戦的だが、それが映画的な面白さに結びついているかは微妙なところ。特に主人公が見る幻覚の手垢にまみれた描写は、隠喩や徴候と結びつかない新たな視覚的恐怖の表現に達しているとは到底言えない陳腐なもの。また、終盤にかけてのひねりもありがちな発想の範疇に収まっている。しかしながら、それらの欠点を補って余りある、娘への妄執に取りつかれた母役イ・へヨンの怪演は圧巻。
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日本未公開映画上映・配給団体Gucchi's Free School主宰
降矢聡
女性の社会的なキャリア形成の困難さは、とてもホラーであるということを訴えている、実に社会派なホラー映画である。真相に近づくにしたがって、自分がミスリードしていることに気付かされるという展開は、サスペンス・スリラーのような映画ではよくあることだが、本作が特徴的なのは、視界が晴れてくるにしたがい、主に男性登場人物に対する見方が変化する点だろう。また視界が晴れれば晴れるほど、男性の登場人物はどこまでいっても蚊帳の外にいることも明らかになって面白い。
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文筆業
八幡橙
ニュースキャスターの女性に宛てた一本の電話に端を発する物語。花形職業を巡る嫉妬や熾烈な競争、家庭との両立の難しさ、娘に過度な期待をかける母の存在――毎日見慣れたニュース番組の裏側に多様な問題を盛り込み、複雑に入り組む脚本を練り上げて巧みな緩急と共に演出した女性監督チョン・ジヨンの才気に瞠目。「哭声/コクソン」でもミステリアスな存在感を示したチョン・ウヒ、怪しげな佇まいのシン・ハギュン、熟練の演技が光るイ・ヘヨンの三つ巴演技合戦も見応えあり。
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猫たちのアパートメント
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
猫たちがみんな太っている。毛並みがいい。ちゃんとご飯をもらっているのだろう。のびのび遊んでいる猫たちを見ているだけで微笑ましい気持ちになる。廃墟になろうとしている巨大団地。どんどん人がいなくなる。取り残された猫たち。彼らの日常。猫の目線で街を覗き見しているようなドキドキがある。薬屋のおじさんが猫たち一匹一匹の性格とかよく知っていて、あだ名をつけて可愛がっているのを見ると、猫がいるだけでずいぶん救われている人がいるのだろうと思う。
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文筆家/俳優
睡蓮みどり
飼い猫ではなくて団地猫。ペットではなくご近所さん。250匹もの猫たちが暮らしているトゥンチョン団地から、彼らの新たな移住先を探す軌跡を追う。自然体で映る猫たちには、人間とは違う時間が流れている。一方で、解体されてゆく巨大な団地群の様子は人間の時間を映し出す。そのふたつは異質だが、交わらなければならない瞬間がくる。猫にとっての幸せとは一体何なのか? そこからはじまる、人間たちの暮らしや未来を模索するこの物語は、厳しくも優しさに包まれている。
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映画批評家、都立大助教
須藤健太郎
猫、家、女性のコミュニティ。チョン・ジェウンの関心はずっと一貫している。団地の再開発にともない、居住空間は再編成され、コミュニティもまた生まれ変わる。だがそれは人間だけの問題ではない。そこは住人たちが育ててきた大勢の野良猫の住処でもあるからだ。2年半にわたる撮影は、猫の視点をいかにして獲得するかという探究でもあったろう。前作「エコロジー・イン・コンクリート」(17)と対をなすというから前作も見たいが、今作の9時間超のバージョンも見たい。
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フラッグ・デイ 父を想う日
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
やることなすこといい加減。どうしようもないダメな父親。でも憎めない。ショーン・ペンはこういう役がよく似合う。娘と父親の話。ストーリーはここからブレない。母親や弟の話は置いといてひたすら父との関係を描く。娘が母親の元を出て父親のところへ行く。張り切って働き始める父親。彼のスーツケースは空っぽ。密かにジーパンを伸ばす機械を売っている。なんだよそれ! 胡散臭いにもほどがある。ハッパは絶対ダメだぞと言いながら隠し場所を変えられて激怒する父親が可愛い。
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文筆家/俳優
睡蓮みどり
時代ごとにレンズを使い分け、フィルムを駆使したという本作の撮影。変わりゆく映像の質感からは、この映画がもつ本質的な愛情の深さが伝わってくる。ショーン・ペンが監督し、娘のディラン・ペンと息子のホッパー・ペンと共演した正真正銘の家族映画なのだが、それがとことんいい方向にいっている。父親のどうしようもなさに焦点を当てるのではなく、娘の視点で世界を見つめることで複雑な感情がより生きてくると同時に、忘れがたい思い出の数々が宝物のように煌めきはじめるのだ。
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映画批評家、都立大助教
須藤健太郎
監督が主演を兼ねるといかにも自画像に見える。娘の役を実の娘が演じ、父への愛憎半ばする感情に焦点が当てられるとなれば、なおさらだろう。だが、本作をショーン・ペン個人の自意識の問題に帰しては本質を見誤る。星条旗制定記念日に生まれた、偽札事件の犯人。主題はあくまで「アメリカーナ」であり、その偽物である。父が回していた8ミリの映像が何度も引用されるが、父のいない場面でも8ミリが流れる。不思議に思うや、カメラを回す友人が映る。このあたりの律儀な真面目さ。
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浦安魚市場のこと
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
中心人物の魚屋店主一家が住む築浅の瀟洒な一軒家や、ポストクレジットで挿入される移転先の小綺麗な新店舗が象徴的だが、再開発における旧住民と(本作では取り上げられないが)新住民の構図は保守主義&伝統主義と新自由主義の違いでしかなく、そこにあるのは「対立」ではなく「時代の流れ」でしかない。見当外れなイデオロギー対立に落とし込まず、その「時代の流れ」をどう捉えるか観客に委ねているところに好感。この店主、人としては最も苦手なタイプではあるがそれは別の話。
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映画評論家
北川れい子
閉鎖が決まった魚市場の、その最後の日までを追った作品だが、不思議と感傷度は薄い。市場に限らず、地元の人たちの日常に溶け込んでいた場所や風景が失われてしまうと、過剰に感傷的になるものだが、この市場の店主たちは、意外とサバサバ店仕舞いの準備をする。本来ならば、閉鎖が決まるまでのいきさつをこそ撮るべきでは。そういう意味ではかなり受け身のドキュメンタリーで、一番感傷的なのは監督かも。ただ登場する店主たちはそれぞれに魅力的で、やっぱり主役は人間なのだ。
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映画文筆系フリーライター。退役映写技師
千浦僚
2013年「アナタの白子に戻り鰹」(監督はこの映画の助監督)を観て唸った。魚食文化の宣伝隊としてロックバンド「漁港」が存在し、そのフロントマン森田釣竿が、森の石松のような、寅さんのような、「トラック野郎」星桃次郎のような愛すべきお騒がせ男を演じたその中篇は日本人の心の琴線をグイグイ引いて一本釣り、おいしい魚も食べたくさせた。その彼の実像と閉場に向かう魚市場の記録だ。ナレーションや字幕がつくくらいでもよかった気がするがしみじみ見入った。魚食、大事。
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理大囲城
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
これ誰が撮ったんだろう。大学構内で次々逮捕者が出て、追い詰められていく状況を余すところなく捉えている。撮っているやつらは逮捕されなかったのだろうか。最後の最後までカメラは回り続ける。中にいるやつらの顔は全部モザイク処理されているが、それぞれの顔が見えるようだ。彼らの言葉が突き刺さる。どこかユーモアもある。「本当は怖いんだ」と語る若者が持ってる武器が弓矢!だったりする。みんな若い。青春真っ只中。防毒マスクで抱擁する彼らの姿がいつまでも残る。
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文筆家/俳優
睡蓮みどり
掠れゆく叫び声が飛び交う。誰を信じていいかわからなくなってくる。ああ、ここは戦場なのだ。日に日に弱ってゆく身体と、迫りくる心理的な限界。香港民主化デモに関するドキュメンタリーは多く作られてきたが、思想を訴えるのではなく、とことん、そこで何が起こっていたかという実態に迫っている。カメラが捉える緊迫感からは目が離せない。香港理工大学包囲事件の渦中にいたという匿名の監督たちによる、まさに命懸けの撮影。いつか彼らが名前を明かせる日がくる世界を願う。
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映画批評家、都立大助教
須藤健太郎
運動を内側から撮る。それは最終的にデモ隊たちの内面を、つまりは心の中の葛藤を撮ることに向かっていく。この階段をのぼるか降りるか。重大な決定の前で判断ができなくなり、動きを止める二人を捉えたショットは、「理大の階段」として語り継がれていくだろう。銀色のエマージェンシーシートが舞うラストショットも忘れがたい。人を寒さから守るはずのシートが誰もいない空間のなかで空しく宙を舞っている。不在のアレゴリーとおぼしき無人のダンス。だが、何の不在か。
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