映画専門家レビュー一覧
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縄文にハマる人々
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映画評論家
上島春彦
岡本太郎による縄文美の発見といった歴史的エポックは頭に入っていたが、そういう豆知識の集積とは微妙に次元が違う作品、つまりこれは知じゃなく愛の映画。題名で分かるように縄文文化、端的に言えば土器の奇妙奇天烈さに囚われてしまった人々に監督が驚嘆するコンセプトである。現代人がシビれるのはその過剰な装飾性にあるが、それが普遍性を乗り越え「私にしか分かるまい」という特異性として表れる不思議。マユツバな意見や学説もある気がするが逆に言うとそこが最も面白い。
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映画評論家
吉田伊知郎
学術的な視点も胡散臭い方面も分け隔てなく縄文で結ぶことで何とも奇妙な魅力を放つ熱に浮かされた人々を映し出す。冷笑的にならず、監督自身もハマっていくことで、映画自体も客観性を失っていくのが良い。その言動の虚実を疑いたくなるほど虚構的な人物が登場したかと思うと、統合失調症になった前夫の話を始める人もいて、縄文ではなく、そこに至るまでの話をもっと聞いていたくなる。このノリで〈映画にハマる人々〉も観たいが、こんな陽気にはならず陰惨なものになるだろう。
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リダウタブル(英題)
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ライター
石村加奈
食事のシーンが印象的だ。自身の文化大革命的作品「中国女」に因み、箸を器用に使いながら仲間と焼きそば等をつついていたゴダール。恋人のアンヌと、裸でフランスパンなんてシャレオツな朝食を楽しんでいたはずが、アンヌたちが豪快に手づかみで骨付き肉をぱくつく横で、ナイフとフォークを使ってまずそうに食べる貧相な男に成り下がる。やがてアンヌの職場に押しかけた彼には、凍りつくようなディナーが待ち受けていて……。対するアンヌ役ステイシーのチャーミングな口許は無敵だ。
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映像演出、映画評論
荻野洋一
ゴダールについての非ゴダール的映画が舌足らずな本作だ。「中国女」完成前後から五月革命までを語るのはいいが、ヴィアゼムスキーという中途半端な主体を隠れ蓑にして、五月革命もジガ・ヴェルトフ集団も不当に矮小化させた。「ヌーヴェルヴァーグに対する白色テロ」として本作を位置づけるべきだろう。エンドクレジットを眺めていたらB・タヴェルニエの名前。なぜカイエ誌から反カイエ派のポジティフ誌に転向したこんな名前が? 星1個は本作に対するせめてもの礼儀だ。
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脚本家
北里宇一郎
ゴダールの信奉者ではない。だけどその映画の才能は認めている。好きな作品もあれば苦手なヤツもある。そういう者から見ても、この描き方、少しイビツに感じる。ヴィアゼムスキーから見た私生活の彼。そのわがままぶりを作り手は強調しているようで。どこか神格化されたゴダールを地に落としているような印象。それもありだと思いつつ、(たぶん原作にはあるだろう)対象者への畏敬の念とか愛が感じられなくて。監督は67年生まれか。あの時代に無関心の世代が作ったゴダール映画の感。
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審判(2018)
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映画評論家
北川れい子
電車内でも歩行中でもケイタイ人種がわがもの顔の現代で、あらためて不条理とか、見えないシステムとか言われると、いささか戸惑ってしまうが、ちょっと立ち止まって足元を見直すという意味で、この作品、意義がある。が、脚本がかなり頭ごなしで、どの人物も記号並み、特に主人公は?みどころがない。時に無機質、時にシュール、時に生活感ある背景もとりとめがなく、笑いの欠如もつらいものがある。でもこういうことを言うこと自体、映画というシステムに呪縛されている?
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
単に抽象への憧れなら認めたくなかったが、カフカの本質である、他人こそが自分の知りえぬ自分の存在意義と進路を知りそれを差配することへの怖れがあった。蟲惑的な洗濯おばさん川上史津子をはじめ女性が皆良い。エロくて。カフカ主人公が負う過負荷はエロスに救いを求めたくなるようなストレス。そこでの興味や秘密、目配せはエロく、カフカはピンク映画になりうる。ウェルズ「審判」、ストローブ=ユイレ「階級関係 アメリカ」、万田邦敏「大回転」を観たとき同様そう思った。
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映画評論家
松崎健夫
日本に舞台を置き換えてカフカの小説を翻案した本作には、不条理な状況が繰り返し提示される。主人公はその不条理に戸惑うのだが、“裁かれるべき者が裁かれることのない”我々の棲む現実社会の方がより不条理なのではないかと思わせる。原作が執筆されて約百年が経過するが、回り回って時代や気運が過去に戻っているという可能性に絶望させられる。映像から色彩を抜いたりブルー系に寄せたりすることで善悪の曖昧さを表現しながら、あるポイントで色を強調させている点も一興。
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パンク侍、斬られて候
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映画評論家
北川れい子
おお、「地獄の黙示録」の石井岳龍監督版だっ! フトドキでふざけていて不真面目で不埒千万、けれども狂態、狂騒のあちこちに、世界の現実や世間のデタラメさが透けて見え、もう面白いったらない。面白さにつられて町田康の原作を読んだら、これまたとんでもなく自由奔放で、宮藤官九郎の脚本も原作にノリノリ。演技陣の真面目な怪演もワクワクさせ、各キャラのナリフリも超リアリズムでドギモを抜く。天下分け目のヤラセの大暴走に、猿まで加わっての大迷走。北川景子のキャラもいい。
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
永瀬正敏が大臼延珍という猿神を演じ、なおかつナレーションをしていることがネタバレ禁止でなぜ? と思うがたしかにそれは脚本宮藤官九郎独自の工夫であるらしく大きな意味があると思える。しかしそんなにうまく機能していないというか、それについて観た者が話さないと機能しないと思うのでその話をする。パンクがオリジナルのロックの活気リバイバル戦略としてチンピラさを意識的に演じたメタなものなのとこの物語全体が登場人物を突き放した語り手に語られてい…字数が尽きた。
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映画評論家
松崎健夫
〈映画〉とは興行でもある、というのが個人的な考え方である。そして、リュミエールの作品群を映画誕生とする以上、スクリーンに投影された映像を不特定多数の人間が同時に鑑賞するものを〈映画〉と呼びたい。そういう意味で、ネット配信会社が興行のリスクを負うことの意義を、某Netflixには本作から再考いただきたいと願う。怒濤の情報量を持つ映像は縦横無尽なカメラを伴い、嬉々として演じる役者たちを捉えている至福。石井岳龍ではなく、斯様な石井聰亙を僕は観たかったのだ!
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正しい日 間違えた日
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ライター
石村加奈
芸術家志望の頑な女とモラトリアムを引きずった中年映画監督という、世にも厄介な組み合わせが、デリケートな男女の、勇敢な出会いと別れという叙情的作品に! 何が正しくて、何が間違いだったのか? という観点から、観れば観るほど味わい深い。前半から後半へ、どこがどう変わったのか、観客自身がきちんと?める構成が滅法面白い。そのズレが微妙な変化であるところもチャーミングだ。例えば結末の違いを筆者は素直さと捉えたが、おぼこさが自身にはね返るようなオマケも愉し。
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映像演出、映画評論
荻野洋一
擬似自伝的コント2つのうち前半は下世話な現実譚、リセットされ修正された後半は理想主義的。なんともずるいこの話法は大島?「帰ってきたヨッパライ」のごとし。タラレバ的理想主義は、本作がロケされた京畿道水原市の空気が影響を及ぼしたと推理したい。前後半とも物語の発端となる世界遺産の華城行宮は、NHKドラマでおなじみイ・サン(正祖王)が建てた宮殿であり、一度は遷都が夢見られた理想都市。辺りにはあらぬ空想を掻き立ててやまぬ冷たい霊気が滞留しているのだ。
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脚本家
北里宇一郎
映画監督が女をナンパする。一回目は失敗して二回目は上手くいく。その繰り返しの映画。監督が既婚のこと。それをいつ、どのタイミングで彼女に言ったか。そこが成否の分かれ目――という映画。ちと手法を弄びすぎという感がして。この主人公も身勝手としか思えない。はい、そんな男のイヤなところを率直に描きましたと、ホン監督は言うかもしれないが。相変わらず女心の観察眼は細かい。けど、ナルシスも匂って。「それから」の2年前の作品か。本気不倫を経て少し大人になったのね。
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名前
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評論家
上野昻志
名前を偽り、それまでと別な場所で生きるということには、それ以前の人生から逃れるという負の要因が考えられるが、津田寬治演じる主人公には、それだけでなく、別人になること自体に喜びを感じるという姿勢が窺えるものの、その欲望のありようが、いまひとつ見えにくい。というのも、名前や職業を偽るうえでの彼の振舞いには脇の甘い、かなりいい加減な点が見受けられるからだ。その辺を詰めないと薄っぺらな人間に見えてしまうが、父を求める少女(駒井蓮)の登場で少し救われる。
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映画評論家
上島春彦
地味なタイトルで損しているが、実際これしかない。社会から存在を抹消するために様々な偽名を使いこなす中年男。そこに謎の女子高生が出現し、話が男女それぞれの二重構造に変わる。同じ時間をもう一人の側からたどり直す技法も冴え、謎の解決も二重になる、つまり二人どちらにも秘密が出来るのが面白い。彼女の所属する演劇部のエピソードは妙にしつこく違和感あり。だが、そのリハーサル戯曲が清水邦夫作品だったりするあたりが高踏的というか不思議な印象を与え、大成功。
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映画評論家
吉田伊知郎
津田が他人の前では虚栄心を捨てられない姿を、突っ張りつつも寂寥感を漂わせて好演。ただ、それぞれの名前が冠せられた三部構成といい、ヒロインの舞台稽古や終盤の処理といい、小説や演劇ならこのまま成立するだろうが、映画の表現へと昇華されているとは思えず。終盤で作品の構造を台詞で全部説明している間、画面が説明のための待機時間にしかならない。全篇を彩る郊外の風景も、充分に映画的な風景のはずだが際立たず。〈なりすまし〉は映画に相応しい主題だけにもどかしい。
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返還交渉人 いつか、沖縄を取り戻す
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映画評論家
北川れい子
理想を求めず何が外交か、と不退転の決意で米側と交渉する主人公の覚悟は伝わってくるが、いまこの人物を描くこと自体、間接的に日本政府の“言い訳”を代弁しているような。いや、そこまで勘繰る必要はないのかもしれないが、制作はNHK、何やら裏があるような気も。西岡琢也の脚本は、米側だけではなく外務省にもいくつもの障害を置き、沖縄の人たちの立場で闘う主人公の公私に密着するが、逆に考えれば基地県沖縄の誕生秘話、主人公はリッパでも、どうもいまいち腑に落ちない。
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
井浦新が演じる外交官千葉一夫は現代アメリカ映画のなかで作り直された三八式歩兵銃のようだ。「プライベート・ライアン」のブルータルでハードな銃撃音以降の戦争映画のモード変化は「父親たちの星条旗」「ハクソー・リッジ」に見る如く日本側兵器の威力をも引き上げた。パーンではなくズギャオーン!。だがこれこそ当事者の切迫かつ表現の可能性、なされるべき劇化だ。主人公そして本作自体の戦後沖縄に関する義憤、歴史周知の意図、自ら一個の脅威となりたい想いを良いと思う。
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映画評論家
松崎健夫
「返してもらう」のではなく「取り戻す」というニュアンスの違いにこだわることで、未来への道となる礎をより強固なものにする。人を育て、次の世代にバトンを渡すことについて、主人公は「忘れられては困るんです」と語る。しかし悪い意味で“忘れず”そして未だ“続いている”という現状に対しては憂うに至る。意義ある内容や完成度の高さとは関係なく、また再編集されているとはいえ元来テレビの再現ドラマである本作を〈映画〉として評価するのは、残念ながら個人的には難しい。
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