映画専門家レビュー一覧
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最初で最後のキス
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映画評論家
きさらぎ尚
浮きこぼれ3人組を主人公にしたこの映画、邦題にもう少し工夫が欲しいところだが、ドラマの中身はぎっしり。3人の三角関係を主軸にした青春映画であり、そこにはLGBT、いじめ、親子関係等の切実な問題が盛り込まれている。若者、あるいは親の、いずれかに肩入れするのではなく両者を絡ませて、危うく痛々しい3人の日々を描きながらテーマを浮かび上がらせ、衝撃のクライマックスへと導く作劇はうまい。インスタ風の映像、カラフルなファッションにインテリア、音楽も○。
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映画系文筆業
奈々村久生
言うなればイタリア版「はなればなれに」。男女3人が手をつないで学校内を駆け抜けるカットはまさにルーブル美術館のシーンへのオマージュが全開で、拳銃の使い方やミュージカルの要素を取り入れた演出にも目配せがうかがえる。「はなればなれに」へのオマージュといえば「ドリーマーズ」が有名だが、ゴダールへの憧れはイタリア映画史に脈々と受け継がれているよう。男二人に女一人の物語につきものの定石として、関係は悲劇的な結末をむかえるのだが、そんなところも含めて正しい。
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50回目のファーストキス(2018)
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映画評論家
北川れい子
毎回、人物たちを迷走、暴走させている福田監督が、よもやハリウッド映画の焼き直しのラブ・コメを撮るとは思わなかったが、それはともかく、あまりに他愛なさすぎて、あれこれ言う気も起こらない。一日で記憶がチャラになる彼女と、そんな彼女に恋をしたチャラ男。長澤まさみも山田孝之も。休暇で遊びに来たハワイでちょっと映画に出ちゃいました的な演技で、毒にもクスリにもならない。ま、脚本のせいでもあるのだろうが。この映画からハワイを取ったら何が残るのだろう。
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
面白かったし、長澤まさみの伸びやかな白い脚や肩ひもの日焼け跡がうっすら見える胸乳まわりにこちらの網膜と脳髄を心地よく灼かれる思いもし、彼女単体の魅力、ことに健康的でさわやかな色気は元ネタ映画のドリュー・バリモアを超え、山田孝之もアダム・サンドラー路線の存在感を出している、と思うものの映画全体の構想やキメの場面などが原作「50回目のファースト・キス」を一歩も出ておらず、くすぐりもウザい。これは字幕読むのが面倒な人のための抄訳的翻案ではないか。
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映画評論家
松崎健夫
映画の中で長澤まさみが1日で記憶を失くすことと相反するように、観客は過去作のことを忘れていないという構造を持っている。つまり、最初からストーリーのわかっている本作においては“同じことを繰り返す”ことこそが重要なのだ。そのことが、ヒロインを取り巻く周囲の〈変化〉や描き方の〈変化〉をも重要にさせている。山田孝之のマシンガントークはもちろん、ハリウッド版を踏襲させた大賀の演技アプローチが秀逸。季節の変化を考慮してハワイロケを踏襲した英断も評価したい。
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ビューティフル・デイ
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ライター
石村加奈
孤独な「ひとり」と「ひとり」が対峙する、二人のシーンが印象的だ。ジョーが年老いた母と銀食器を磨くシーン。母を殺されたジョーの逆襲に遭い、キッチンで死にかけた男がシャーリーンの『愛はかげろうのように』を口ずさむシーン。暗い画面の中に、優しさやユーモアがほの明るく灯り、孤独な人間の心に満ちた怒りは哀しみへと変わっていく。静かな変化を、息を潜めて観るのは苦しいが、ラストシーンが素晴らしい。ジョーとニーナの迎える朝は、最後に残る気配まで表題通りの美しさだ。
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映像演出、映画評論
荻野洋一
死の誘惑に取り憑かれた凶暴な男が、ブロンド美少女を性的虐待から救出する構図は、あまりにもハードボイルドの典型に収まっているが、少女を演じたE・サムソノフはワシコウスカやファニング姉妹の衣鉢を継ぐスターとなるだろう。ティクヴァ、W・レフンなどと続いたナルシス的幻想サスペンスは、トム・フォード「ノクターナル・アニマルズ」で頂点を極めたかに見えたが、現代映画はこの新ジャンル開拓に適した時代らしい。ディストピア内面化時代に相応しいグロテスクだ。
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脚本家
北里宇一郎
まるで「タクシー・ドライバー」の修羅場のタッチで、ハードボイルドの探偵ものが綴られているような映画。精神を病んでいる主人公。母親との生活は「サイコ」みたいで。迷宮をさまよっている感覚。だけどこのギザギザしたスタイルには心地よさが。音楽の選曲のセンスも含め、映画全体がカッコいいのだ。少女の救出が、子ども時代のトラウマからの解放になる――という物語の芯がカッチリしているから、どんな混乱状況を描いていても、ずっと惹きつけられるのだろう。邦題が上手い。
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レディ・バード
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批評家、映像作家
金子遊
17歳、高校生活最後の年。人はどうして自分の外見が嫌いで、ここではない都会に憧れ、母親の小言に反発し、スクールカーストの上ばかりを見つめ、髪型や服装で個性がだせると信じ、早く初体験を済ませたいと願い、夜歩きやバンドやマリファナがクールだと思いこむのか。この物語におけるどの要素も小説や映画で描きつくされたものなのに、ひとつ一つが有機的に結びついている。観る側が共感しながら自分の記憶を投影し、物語の半分以上を補っているから、こうも素晴らしいのか。
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映画評論家
きさらぎ尚
田舎も勉強も嫌いだが、都会の大学に進学したいヒロインの気持ちに共感が大。そんな青春に、家庭内によくある出来事を絡め、人気の俳優を配役し、最終的に親子の物語にまとめあげた(ラストで父が娘の母へのわだかまりを解く展開はお見事)G・ガーウィグの平衡感覚を評価したい。でもカンニングに成績改竄、ミサ用の御聖体をポテチみたいにポリボリ食べ、下品な言葉を吐くカトリック系高校のパンクな女子高生を演じるには、S・ローナンは整っていて、しっくりこないのが惜しい。
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映画系文筆業
奈々村久生
ノア・バームバックや「スウィート17モンスター」などの世界観が好きなら期待を裏切らない作風。米インディペンデント映画シーンの顔として活躍したグレタ・ガーウィグの監督作らしく、メインストリームのカテゴリーからはみ出たキャラクターたちを、複雑な親子関係や思春期のカオスと苛立ちに絡め、きめ細やかに描いている。そのジャンル自体は傍流かもしれないが、このジャンルの中ではむしろ正統派の撮り方で、オスカーにノミネートされたのも納得。思いのほかしたたかなのかも。
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子どもが教えてくれたこと
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批評家、映像作家
金子遊
五人の難病を抱える子どもの日常を撮ったドキュメンタリー映画。子どもという他者の目線から家庭、学校、病院の姿が鮮やかに浮かびあがる。しかもナレーションや通常の意味でのインタビューを使わずに、子どもたちがカメラの前で私語りをし、モノローグで自分の考えや感情を吐露しているかのように撮影・編集をしている。子どもたちが発する言葉の力には驚くばかり。難病という現実を小さい体で受け入れ、ポジティブに生きるあり方は、まさにわたしたち大人が学びたいことだ。
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映画評論家
きさらぎ尚
「未来の食卓」「ちいさな哲学者たち」「世界の果ての通学路」……、フランスはこの作品も含め児童についての、優れた記録映画を多々生んでいる。背景にあるのは揺るぎない自由意識ではないか。幼いのに難病を抱えて可哀想といった目線はない。医師は子どもに病名を伝え、一人の患者として向き合う。子どもたちが発する言葉も胸に響く。一人の女の子の姉の言う「子どもはやりたいことをするのが一番いいの。もっと命を信じなきゃ」は子どもが発する、大人が肝に銘じるべき金言だ。
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映画系文筆業
奈々村久生
子どもの姿で画面に現れる少年少女たち。難病を抱えた彼らは小さな体で想像を絶するハードな毎日を生きている。しかしその眩しい笑顔と、子どもたち自身の口から語られる前向きな言葉に、「かわいそう」とか「立派」といった感情はまるで当てはまらない。ましてや涙はもっと似合わない。彼らが知っているのは自分自身と生まれてきた世界を愛すること。そのシンプルなことがどれだけ難しいか――。自分の運命を受け入れて目の前の人生を楽しもうとする生き様は本当にかっこいい。
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オラとニコデムの家
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ライター
石村加奈
飲酒問題を抱える父親と自閉症の弟の面倒に追われ、14歳にしてすっかり生活にくたびれた少女オラに、カメラはぐいぐい寄っていくのだが、家を出た母親と電話する時だけ、少女と距離を置く。その距離感に“この監督は信用できる”と思った。この生活しか知らない少女には、自分が困窮している自覚も、髪の毛を梳かしてくれる愛情に飢えていることに気づく余裕すらない。しんどいエピソードが積み上がる中で、身勝手な母親の話に物わかりよく相づちを打つ少女がいちばん哀しかったから。
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映像演出、映画評論
荻野洋一
母は愛人を作って別居、父はアルコール依存と問題山積の家庭にカメラがずかずかと居座る。自閉症の弟ニコデムの面倒を必死にみる14歳の姉オラは、ドキュメンタリーの取材対象の域を越え、もはや完璧に映画の主演女優となった。ここまで胸襟を開かせるまでの長い準備期間での関係構築を、ザメツカ監督は強調する。ではカメラの存在を消せたのかというと逆だろう。カメラがそこにあるがゆえに、オラは本来のオラ以上に「オラになる」のだ。それは「やらせ」なんて簡単なものじゃない。
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脚本家
北里宇一郎
不在の母。無気力な父。自閉症らしい弟。14歳の少女が一家を担っている。キャメラはこの少女と家族に寄り添う。誰も撮影を気にしないのは、作り手との信頼関係が厚いことで。監督たちが深い愛情を注いでいることが分かる。弟に聖体拝領の儀式を受けさせること、母を呼び戻すこと。その少女の願いが叶っても、状況は元のまま。というところに人間、その救いとは何かを問いかけているようで。少し作品世界が狭い印象。が、何があろうとこの姉弟は成長し続けていて。そこが胸に迫る。
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北朝鮮をロックした日 ライバッハ・デイ
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批評家、映像作家
金子遊
国境を越えてファシズムに合うファッション、音楽、身体パフォーマンスがあるのだろう。解放記念日に平壌に招かれたライバッハのコンサート映像を見ると、軍隊的なマーチの要素や高揚感をおぼえるヴォーカルなどの特徴が興味深い。しかし、映画としては当たり前のツアー・ドキュメントであり、制約の多いなかで何とかコンサートを挙行するメンバーの苦労話に終始している。北朝鮮とスロヴェニアのバンドが21世紀に出会うことに関して、批評的な考察があれば引き締まったかも。
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映画評論家
きさらぎ尚
ライバッハのコンサート場面がほんの少しだったのは、ちょっぴりがっかり。でも初日まで彼らに密着し、メンバーとスタッフ、そして招聘した北朝鮮の関係者とのやり取りは見応えあり。異文化の衝突(監視や統制)は話に聞くのと違い、映像で見るとよりスリリング。熱い両者とは対照的に表情が乏しく、楽しんでいるようには見えない観客は、そもそもどんな人たちだろうか。そこかしこに覗く独裁国家の素顔に音楽ドキュメンタリーを超えて諸々の関心が募る。今日の動静も含めるとなお。
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映画系文筆業
奈々村久生
3年前の式典にまつわる真実がこのタイミングで公開されるのも数奇な巡り合わせと言える。1年前と比べても北朝鮮のイメージは大きく変わりつつあるからだ。過激なスタイルのロックバンドが検閲と闘いながら打開策を探る記録は表現をめぐる運動として極めてスタンダードなものであるが、ナチス的なファシズムをパロディとして装う同バンドを敢えて自国の記念すべき行事に招致した金正恩の胸中やいかに? それを慮れば、もっと奥の深い二重三重のブラック・コメディに見えてくる。
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