映画専門家レビュー一覧
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実りゆく
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詩人、映画監督
福間健二
リンゴ農家とお笑い芸人。実際に両方をやっているモデルから考えた話だが、農業もお笑いもこの世での大切さ、すごくあるのだというところに踏み込んでいるかどうか。そのためには必要な、社会にはびこる悪意や劣等感への批評が足りない。前半で難破していそうな筋を八木監督はなんとか動かす。竹内一希と田中要次の、息子と父をはじめ、演技にふくらみはないが、ハマってはいるというキャスティング。ダメな永真の役に仕掛けてあったものが救い。そこに爆発的なネタが欲しかった。
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メカニカル・テレパシー
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映画評論家
北川れい子
開発された特殊な機械によって可視化された意識不明の研究者の“心”が、まんま、その人自身の姿カタチをしているというのが、いささかイージー。これだと心は身体と全く同じということになる。或いは、本質は現出する、といったドイツの哲学者ヘーゲル理論の実践? シンプルでひっそりとした設定の中で、科学と想念というテーマを同時に描こうとする五十嵐監督の野心は素晴らしいと思うが、観ているこちら側にいまいち伝わるものがないのが残念。音の使い方は効果的。
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編集者、ライター
佐野亨
ハマー・プロの作品に出てきそうな妙に古めかしい機械、蔦が絡まる外壁にコンクリート打ちっぱなしの空間、キャストの低体温な演技。随所に黒沢っぽさ、高橋洋っぽさがただよう。ダメ押しとしてゴダールのポスターまで映り込んでいるときては、これはもう正しく「映画美学校の映画」であって、部外者としてはそれ以上になにも言うことがない作品と感じてしまう。その外見の奥に仄見える情動や人間観がもっと無邪気にはじけたときにこの作り手は傑作をものすと思う。期待して待つ。
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詩人、映画監督
福間健二
人間の心を可視化する。どうするのか。思っていることを隠さないもうひとりの自分の像を出現させる。このコンセプトにも、それを実現する機械にも、なるほどと納得させる力はない。科学、科学者、その愚かさを暴くというモティーフもとくにないようだ。もたつきながらも話は進む。待っているのは、「可視化」がどうこうというよりも、自他の願望が入りくむ関係性の迷路。五十嵐監督、タルコフスキーを意識しているだろうか。心理を異次元に展開する実験の第一歩は踏みだしたと言える。
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82年生まれ、キム・ジヨン
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映画評論家
小野寺系
ジェンダー問題に根ざした、韓国における典型的な女性の生活と、著者自身の経験を織り込んだベストセラー小説を、映画作品として見事に脚色。ある年代の韓国女性そのものを抽出した内容は、“憑依”という要素によって、ある種ファンタジックに、性差別の歴史をも掘り起こしていく。「はちどり」とともに、男性が表立ってかたちづくってきた社会と歴史を、これまで陰とされてきた側からとらえる試みは、韓国のみならず、これからの世界の映画の在り方を予言する。近年の重要作だ。
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映画評論家
きさらぎ尚
まずは、共感力の高い物語だ。原作が話題になっていたが、そのエッセンスを損なわず話を現在に移行し、かつ普遍的なエピソードでドラマを組んだ結果だろう。夫の親との関係に育児、再就職に会社での人間関係など、どれも有る有る感が大きい。女性の生きにくさは、日本と同じなのだと妙に感じいる。個人差があるにしても、実は男性の問題でもある。世界経済フォーラムの分析による男女格差指数が、153カ国中121位の日本。「女性が輝く社会」などと看板を掲げるだけではダメですよ。
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映画監督、脚本家
城定秀夫
女性映画であると同時にかなり真正面からジェンダー問題を扱った社会派映画でもあり、韓国の実情は詳しくないものの、恐らくはさほど誇張なく描かれているであろう女性の生きづらさには考えさせられる部分が多いうえ、フラットとはいえないまでもテーマの明確化のため男性を一方的に貶めることはしない公平性にも目配りの利いた完成度の高い映画だとは思うのだが、主人公に他人の人格が憑依するという要素が物語にさほど有機的に作用していない異物としてわずか喉に残ってしまった。
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異端の鳥
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非建築家、美術家、映画評論、ドラァグクイーン、アーティスト
ヴィヴィアン佐藤
火、水、風、土の様相と人間の相貌を美しいモノクロームで昇華させた。少年の成長物語と言えなくもないが、国家と少年の体験が複雑に混ざり合い翻弄される。一度は誠実な司祭によって救済されるが、彼は肺を患い死去。傷ついた少年の存在を語り継ぐ者は皆無。しかし傷ついた世界を語り継ぐことができるのは少年だけだ。描かれたのは一少年の半生ではなく、世界からはみ出してしまう人間や動物の過剰な「生きる(死ぬ)」というリビドーの余剰とその背後の不可視の欲動だった。
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フリーライター
藤木TDC
子供に対する虐待の残酷や恐怖を芸術性で希釈しようとの目的だろう、痛ましい展開の多い中盤までは詩的な静止画風カットをやたらインサート、上映約3時間はだいぶ間延びを感じる。全篇モノクロ仕様も物語を少年の記憶として幻想的に見せる方向には効果的だが、本作の重いテーマはカラーで窮状と苦痛を生に再現するほうがまっすぐ意図が伝わるはず。苛烈な歴史の再現で話題をとりつつ観客をあまり不快にさせたくない監督の姑息な計算が透ける。映画祭での評価が主目的なのだろう。
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映画評論家
真魚八重子
世に溢れる文学からどれを映像化するかの選択で、この映画はあらかた存在理由が決まっている。人間はヒトラーに加担しナチスを巨大化させた程だから、愚昧さや悪意を元々はらんでいて性悪説で語れる側面を持つ。だが善意も持ち合わせている複雑さが真実なので、本作のように悪だけをつらねて描くのは寓話性が強くなる。子どもが辛酸をなめるため「だれのものでもないチェレ」を思い出したが、チェレがリアリズムであるのに対し、本作はグロの抽出が露悪的で鼻につく。
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ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ
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非建築家、美術家、映画評論、ドラァグクイーン、アーティスト
ヴィヴィアン佐藤
素晴らしい気品に満ちた映像。まさかナイマンの音楽で攻めてくるとは。15世紀のメッシーナによる名画『書斎の聖ヒエロニムス』を彷彿させる“断面絵画的”な画作り。ヴィクトリアン様式の住宅空間を丁寧に時間と空間によって細かく積分し連続して映し出す。窓からの光が総てを貫通する様は、サンフランシスコの黒人の歴史をその尊厳と誇りが貫いている姿勢そのもの。その土地固有の時間と空間から紡ぎだされた物語と映像は、タイム&サイトスペシフィックな手法で現代的。
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フリーライター
藤木TDC
文科系アメリカ黒人の感性を散文詩的に並べ、きわめてミニシアター的な空気を作り出す個人史映画。80年代のスパイク・リー登場に似た新しいサムシングを感じた。ギャグなのか比喩なのかローカルな符丁なのか解釈に困るシーンが多くあり、なんじゃこれ感覚に浸っているうち格差・分断の克服を問う主張と諦念が静かに染み込んでくる。客席で共有する微妙感や終映後の感想会話へのときめき。こうした映画でミニシアターの経営が健全に成立すれば日本は文化的な国なのだろうけど……。
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映画評論家
真魚八重子
監督や主役俳優は初々しいはずなのにとてもこなれていて、独特なタッチはまるで70年代前後のシュールな演劇的映画を観ているようだ。黒人の老若男女の日常と孤独と家へのこだわりといった一連の絡まりが、ハル・アシュビーの「真夜中の青春」を思い出させる。ストーリーの軸は2時間を引っ張るにはいささか浅く拍子抜けもするが、撮影や編集、音楽のそれぞれが水準以上で魅力的。特にオープニングは二人の青年がスケボーで街を走っているだけゆえに編集の鮮烈さが際立つ。
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建築と時間と妹島和世
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映画評論家
北川れい子
公園のような建物。周辺の環境との美しい調和――。新校舎の微妙に異なる模型を前にした建築家・妹島和世はその設計意図を語る。けれどもこのドキュメンタリーの意図が分からない。妹島の仕事ぶりを撮りたかったのか。新校舎の基本工事から完成までを定点カメラで撮りたかったのか。あるいは大阪芸大アートサイエンス学科のPR? いずれにしろ中途半端な産業映画という印象で、しかも完成した校舎の中はほとんど撮っていない。あ、妹島和世のファッション・センスには感心。
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編集者、ライター
佐野亨
他の建築ドキュメンタリーとは一味違い、この映画は建築の工程や建物の造形美ではなく、「建築家がいる時間」をこそ注視する。青々と茂っていた木の葉が紅く染まり枯れていく季節の循環。妹島和世のインタビューも、語られている内容以上に、語っている時間そのものに意味がある(インタビュー中に物音がして「なるべく静かにしててね」と妹島が叫ぶ場面をあえてカットせずに残していたりするのもそのためだろう)。時間を接合すべく全篇に流れる石若駿のジャズドラムも心地よい。
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詩人、映画監督
福間健二
大阪芸術大学の新校舎を「公園のような建物」にしたい建築家妹島和世。その姿と言葉と仕事場。実際に校舎が作られていく過程。三年半の時間が流れるが、題名に入れた「時間」は何を指すのか。評者が鈍いのか、監督の写真家ホンマタカシが妹島和世にどう挑み、何をつかもうとしているのかも伝わってこない。表現者対表現者という緊張の瞬間がついに訪れないのだ。そんな企画じゃないとしても、遠めの映像の反復は現場での困難さやよろこびも取り逃している。音楽の使い方もよくない。
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生きちゃった
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フリーライター
須永貴子
石井裕也監督作品には寡黙な主人公が多い。本作の妻子持ちの主人公・厚久も、英語なら「愛している」と言えるのに日本語だと言えない、と笑う。言語は他者だけでなく、自分を理解するツールであるが、厚久は言葉を飲み込み続けてきたことで、自分の感情にも蓋をする癖がついてしまった。そのことが引き起こす家族の崩壊を、半年刻みの見事な省略話法で、スリリングに描いていく。ミニマムな世界のお話に、日本人が直面している貧しさや孤独、絶望もさり気なく滲ませる。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
久しぶりに考えさせる映画を観た。夫も妻もものすごくまともに生きている。妻は「女でありたい」ために、夫と別れ、別の男と一緒になるが、相手が悪かった。殺されても仕方ないようなクズ。殺したのは奇しくも引きこもりで大麻癖の夫の兄。その妻もクズが残した借金のせいでデリヘル嬢になり、客に殺される。悲し過ぎるのだ。夫はあまりに真摯なために、本当のことを口にできない。彼女と娘のために家を建てることを夢みていたのに、「愛している」のひと言も言えない日本人なのだ。
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映画評論家
吉田広明
好きだからこそ大切なことが言えず、大事なものを失ってきた男が、今度こそそれを言うために走り出す。その瞬間で映画が終わる。この前のめり感が素晴らしい。原点回帰、信念と衝動のみに導かれたという監督の熱と、主演俳優三人の存在感が融合して、もはや監督の映画とも俳優の映画とも言い難い作品になった。粗削りな感じはするが、低予算、限定された撮影日数ゆえの切迫がむしろ肯定的に機能している。主演三人(特に大島優子)も監督と正面からぶつかり一段階ステージが上がった。
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カナルタ 螺旋状の夢
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脚本家、映画監督
井上淳一
これは果たして映画だろうか? 1年以上もアマゾン先住民に密着しなければ撮れないものの凄さに痺れつつ、その問いが捨てられない。ドキュメンタリーの場合、撮影対象が面白ければ、知らないことも知れるし満足感もある。しかしテレビのドキュメンタリーの映画版が闊歩する今、テレビと映画の線引きはどこにあるのか。ストイックな本作が映画でしか存在しえないのはよく分かる。夢や幻覚という寓話性もある。しかし映画として何かが足りない気がする。それが何か分からない。→
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