映画専門家レビュー一覧
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彼らは生きていた(2018)
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非建築家、美術家、映画評論、ドラァグクイーン、アーティスト
ヴィヴィアン佐藤
いままでの戦争記録映画は、科学的一般的な関心に基づいて作られていた。バルト風に言えば「ストゥディウム」的。しかし本作は実際の退役軍人に語らせ、モノクロ映像に色彩を加え3D化した「プンクトゥム」的な手法。コード化不可能な細部が生き生きと蘇生。そのことで個々の人間性が出現。開戦が告げられ、兵役に招集され、戦地へ向かい、悲惨な戦場の模様が語られる。モノクロからカラーに変わる瞬間、我々は寒気に襲われる。戦争が距離を置いた記録ではなくなる瞬間。秀逸。
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フリーライター
藤木TDC
モノクロフィルムをデジタル技術で着色した映像は近年珍しくない。第一次世界大戦のイギリス軍塹壕戦をダイジェストした本作もカラー化は驚くレベルではないが、フィルムのコマ数を秒/24に揃えるため新たに絵を作り足した映像のスムースな動きには唸る。ただそれらは案外煩雑な作業なのか修復パートは60分ほど。カメラが入れない最前線の激戦はイラストの紙芝居風描写だ。戦勝国民の従軍回想映像詩であり、終盤に厭戦気分も表現されるが、中盤までは好戦的ムードが強い。
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映画評論家
真魚八重子
純粋に記録映像のみをつなぎ構築していく、シンプルゆえに技術が試される作品。どの映像にどんな退役軍人のインタビューをかぶせ、観客を飽きさせない映画に仕上げるかという難易度が前面に出ている。P・ジャクソンは序盤をソフトにし、次第に戦場の目や耳を覆いたくなる地獄をこれでもかと積み上げる手法を取っている。これは戦争反対の意志を伝える真っ当なドキュメンタリーであるし、同時に手法的には戦争の恐ろしさを目白押しにした、露悪的ともいえるホラーである。
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オルジャスの白い馬
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映画評論家
小野寺系
カザフスタンの大地で西部劇「シェーン」を再現しているように見える作品。だがそれが様式美にまで昇華されているわけではなく、同様の構図が用意されたニコラス・ウィンディング・レフン監督の「ドライヴ」の洗練にも遠い。ある程度のバイオレンス描写はありつつも、現地と日本、監督二頭体制からくる遠慮が作品に影響を及ぼしている気がしてならない。母親役のサマル・イェスリャーモワの演技は圧倒的で、表情のみでも繊細な感情が手に取るように伝わってきた。
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映画評論家
きさらぎ尚
養父と実父の、二人の父を亡くす少年の話だが、ストーリーよりも画面に映るカザフスタンの風景、動物、人々に魅入られる。まず、遠くに山並みを望み、朝日を受ける馬の背中から湯気が立ち上る冒頭からして、自然とすべての生命の息づかいを撮り込んだ画面に情感を引っ張られる。もちろんストーリーがどうでもいいというわけではない。こうした美しい村で起こる惨劇を静かだが、きちんと伝える演出が、村の裏面を暴き出す。森山未來が演じるカザフスタン人の父親役は素晴らしい存在感。
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映画監督、脚本家
城定秀夫
森山未來がカザフスタン人役というのにはいささかたまげたが、なにより凄いのが精密な画作りで、美しく広大な風景の切り取り方はもとより、そこに置かれる人物、動物、果てはバスなどの無機物に至るまで、その動きも含めての構図が極限までこだわり抜かれているし、色彩の配置もこれ以上はないと思わせる仕事で、全てのカットでため息が漏れてしまうほどの素晴らしさだったが、穏やかな日常を唐突に襲う西部劇調の物語は小味は効いているものの、少し予定調和なのが惜しいと感じた。
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火の華
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文筆家
和泉萌香
戦争経験者の私の祖母も花火の音で惨状を思い出すのでみたくないと言っていた。PTSDを負った元自衛官が花火工場にはいり、苦悩しながらもその傷と向かい合っていく……という話かと思いきや、一人の男の心に寄り添った、現実に強く基づいた前半から転換した後半に驚いてしまった。山本一賢の佇まいは素晴らしいが、終始全登場人物にあてられた(と言いたくなるくらい、いかにもな)台詞がそっくり場面の余白を埋めてしまうように予定調和的でかつ冗長。
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フランス文学者
谷昌親
イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」を髣髴とさせつつ、それに自衛隊のPKO問題が絡み、さらに新潟の花火が接続され、同じ火薬が銃弾にもなり、花火にもなるというテーマに帰着するあたりの扱いは鮮やかだ。物語そのものの設定にやや無理を感じさせる部分があったり、映画表現としての粗さもなくはないが、日本映画にはあまり見られない社会的テーマに取り組み、しかもそれが日本の地方のローカル性を踏まえて撮られている点がおもしろく、ラストの花火の映像も魅力的だ。
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映画評論家
吉田広明
紛争地域に派遣された自衛隊員、そこでの活動はあくまでPKO、また自衛隊は戦争行為をしないという建前上、そこで起こった発砲も「衝突」であり「戦闘」ではないという安部政権の欺瞞を発想元としてはいるが、日本の軍事のありようを厳しく問うというより、テロというアクションを香辛料とした人情ものになっている。人の死を招きもすれば人の営みを寿ぎもする「火薬」の二重性、少年を殺す冒頭と少年を救うラストの対称性の構成の整然が作り事めいて、ドラマの深刻さを殺ぐ。
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つつんで、ひらいて
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映画評論家
川口敦子
「敢えて残酷で皮肉な目線を加え、家族と師弟の美しい部分と、闇の部分の両面を見つめていきました。複雑な感情を紡いだ作品ですが、物語はとてもシンプルです」。劇映画デビュー作「夜明け」を語る監督広瀬の言葉はその前に撮っておきたかったというこのドキュメンタリーを貫く眼の清廉な厳しさと美しさとみごとに響き合う。それは「言葉を、目から手へ、そして心にとどける仕事」を究めてきた装幀者菊地の核心とも通じ、撮る者と撮られる者との照応のスリルの強度を思わせるのだ。
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編集者、ライター
佐野亨
これほど真剣に画面を凝視した映画は久しぶりだ。凝視するだけでなく、ほんとうに思わずスクリーンに手を伸ばして本の質感をたしかめたり、ページを繰ったりしてしまいそうになった。撮影、編集のリズム、音楽、すべてがつつましく題材にマッチし、紙上の静かなドラマがいつのまにか壮大なスペクタクルへと変貌を遂げている。そして最終的には、「他者との関係性」をめぐる問答へと行き着く今日性。装幀という専門領域にとどまらない豊かさをもった、アクチュアルな一作である。
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詩人、映画監督
福間健二
菊地信義の装幀が何をもたらしたのかも、呼応してきた時代的な美意識の変化も、簡単には語れない。それに怯まず、広瀬監督は作業と人を見つめる。最後の「達成感はない」まで、味ある言葉が、菊地自身と彼の関わる作家、編集者、弟子からも。人が、時運に乗って、いい仕事をするってこういうことだと納得させる。きれいに作りすぎているのと音楽の軽快感などで、いわば本の含む世界の「暗部」が切りすてられ気味なのに不満はあるが、それもエンディングの鈴木常吉の歌で緩和された。
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ゴーストマスター
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フリーライター
須永貴子
“壁ドンキラキラ映画”の撮影現場が残酷劇場に変貌するまでのテンポの良さと落差の付け方、最初の死体(死に方)にインパクトあり。血糊や死体、モンスターの特殊造形など、痛みや臭いを感じさせないスプラッター描写はキッチュ。ガラリと様相を変えるフィナーレで、現場のすべてを記録したカメラが投写する影像は、映画の魔力に人生を狂わされた人たちへのレクイエムとして響く。全篇を映画愛が貫く本作は、映画監督が人生で一本しか作ることができない“長篇第一作”にふさわしい。
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脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授
山田耕大
中々の快作である。中々などというと、映画の歯切れよさが伝わらないが、他に表現がない。撮影中の恋愛コミック映画の主役少年が、突然悪鬼になる、その唐突さにまず胸がキュン。助監督がデビュー作として書いていた「ゴーストマスター」という脚本のゴーストマスターという悪霊が主役少年にとりつき、以降あれよあれよとホラーな展開になっていく。撮影現場が舞台だからという訳じゃないが、「ああ、映画!」なのである。映画の性感帯をくすぐりまくるのだ。来るべき達人の誕生だ。
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映画評論家
吉田広明
恋愛映画を撮っている現場がホラーに、という話だが、撮られている作品とされる恋愛もの映像が、予告篇にしか見えない。それをしっかり作りこんで伏線としていないため、作者たちの狙う「ツギハギ」、恋愛ものと思いきやホラー、ホラーかと思っていると恋愛ものとして落ち着く、という逆転の切れが薄れている。また、ゴーストと化した脚本がとり憑くのは俳優ではなくやはり監督であるべきで、彼がホラー愛ゆえに、映画をホラーに作り変える、という筋の方が分かりやすかったのでは。
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幸福な囚人
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映画評論家
川口敦子
デビュー作は70万円で撮ったそうだがこの第3作も潤沢な予算に恵まれてはいないのが否応なしに見て取れる。裸電球の下みたいな赤と緑の使い方。白い羽毛が舞う時空――チープを味方につけるかと期待させつつもうひとつキッチュに弾け切れないビジュアルが、組織の中の力関係の鬱憤を描く生々しさと微妙に乖離し続ける。そこが面白味かとも思うが、結局はあぶはちとらずのもどかしさを持て余し消化不良に陥っていく。D・フィンチャー的いやな世界が醍醐味に昇華されず恨めしい。
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編集者、ライター
佐野亨
生理的嫌悪感を誘発するオフィス描写と渇いたヴァイオレンスは天野友二朗監督の十八番で、ところどころハッとさせられる瞬間はある。しかし、そのインパクトが人物造形と作劇のステレオタイプをついぞ上回らない。インディーズで撮られた前二作にくらべると、作家個人の怨念の表出とジャンル映画的な処理に齟齬が生じており、描写の露悪性だけが前景化してしまった。ラース・フォン・トリアーを原体験にもつという天野監督。次にどんな手を繰り出してくるか注目したい。
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詩人、映画監督
福間健二
まだやるのかと言いたくなるような、トラウマを抱えた存在が囚人となるまでの物語。山中アラタの主人公は父親の虐待を受けて育ち、妻は不妊症からウツ。職場は陰湿。男女ともに怖いやつ、いやなやつが揃い、この男の精神を崩壊させていく。登場する全員が「現代社会」の犠牲者で、あやつられるように動くだけとも見えるが、被害妄想の幻影と現実の区別がつかない状態なのだ。個性といきおいをもつ天野監督、音楽とイメージショットによる濃い味つけで失うものにも気づいてほしい。
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この星は、私の星じゃない
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映画評論家
川口敦子
「ウーマンリブ運動のカリスマ的存在」田中美津の「見えない部分」を追う監督は「フェミニズムとはこういうもの」と敬遠している人にこそ見て欲しいとチラシに綴っていて、まさにそのターゲットだと身を硬くして臨んだのだが、田中の裡に見出した「明るさ、おおらかさの奥にある強さ、切なさ、孤独」「膝を抱えて泣いている少女」が自分の中にもいるという監督の映画が掬うカリスマの透明な脆さのようなもの、それを共感や敬愛の念に溺れない映画の距離ある眼差しが息づかせている。
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編集者、ライター
佐野亨
田中美津さんのことばに引き込まれるように画面を凝視していると、沖縄の場面から急激に画面の密度もことばの密度も落ちてしまう。嬉野京子さんの写真をきっかけに沖縄が田中さんにとって自身の生き方を問い直す重要な場所となったことは間違いなかろうが、90分弱の映画でその「切実さ」を描き切るのはそもそも無理があったか、あるいは作り手が田中さんと沖縄の関係性を咀嚼できていないか。むしろ今回は本郷や鍼灸の話に焦点を絞って掘り下げたほうがよかったのでは。
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