映画専門家レビュー一覧
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この星は、私の星じゃない
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詩人、映画監督
福間健二
田中美津は、人に対して、諦めていない。臆さない。かわいい人。声を聞いているだけで飽きない。なかなかできないことだが、七十代半ばで死への到達を恐れずに思う。いわゆる活動以上に治療家として受けとめてきたものを核とする疲労。それが姿に出るときは祈る人になっている。その現在をこんなふうに記録した。文句なしかもしれないが、映画としては、幼児体験、沖縄との関わり方、息子への思いなどの独特さと危うさが、焦点を結ばない。吉峯監督、もっと対話をしてほしかった。
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スタートアップ・ガールズ
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映画評論家
川口敦子
70年代末米映画の掌篇「ガールフレンド」を懐かしく想った。駆け出しの写真家と詩人志望のもうひとり。NYで暮らす対照的な女子ふたりを映画は追う。若さと生きることのやっかいさを思う点では「自由奔放な大学生起業家と“無難is Best”な大企業OL」(プレス)、対照的なふたりが友情の花を咲かせるこの21世紀の物語もかけ離れた所にあるわけではない。ただ類型化された人物を迷いなく類型的に演じさせる一作はパーソナルな演技に支えられた前者の忘れ難さを射ぬけずに終わる。残念。
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編集者、ライター
佐野亨
演出が役者の身体性を信頼しているため、抑圧→解放という作劇にカタルシスが宿る。タワーマンションや高層ビルから眺める都会、建設中の新国立競技場など風景の象徴性も巧い。それだけに脚本にいまひとつの繊細さがほしかった。効率性をもって開かなかった支援者の心が「子どものために」で開いてしまう展開は予定調和すぎる。ちなみに、一見カリカチュアがきつい上白石萌音や山本耕史のキャラクターは、一時期ベンチャー企業を集中的に取材した評者の目から見ても十分リアル。
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詩人、映画監督
福間健二
画がどんどんよくなって、最後には大拍手したくなった。上白石萌音と山崎紘菜、対照的な二人の若い女性が言葉と体で振幅大きく感情を表現する。そこに生まれる躍動にカメラが呼応する。この決め方。鮮度あるポップ感と色彩で包んで、池田監督ってこうなのかとうれしく再認識した。それと驚くのは、芯となる「起業」プランのまっとうさ。小児科系や保育所関連、社会が必要とすることで太く押している。なにか昔の東宝的にキレイゴトすぎるとしても、学びたくなるものが随所に。
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JKエレジー
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映画評論家
北川れい子
“JK”とか“エレジー”とか、あまり食指が動かないタイトルだが、17歳の女子高生の、これが私の生きる道、上等だァ!! 学校とバイト、ときには親友とカラオケに行き、家ではギャンブル好きの父親と元お笑い芸人の兄の食事の世話、更に裏バイトまでしている忙しい女子。けど彼女の名前がココアって、どーなの? 折角、地に足が着いた頼もしい女子を誕生させたのに、キラキラネームとは。ともあれ、自力で前へ進もうとするココアの奮闘は、演じる希代彩の好漢もあり小気味いい!
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
先日「万引き家族」が地上波放映された際に眩暈をおぼえたのは、本篇と、差し挟まれるCMにある生活や家族像のギャップ。CM的物質面の豊かさに視線を固定しつつ困窮と犯罪性に強い引力を受けて下降する層がリアルに存在することを思う。「JKエレジー」が描くのはその感じ。阿部亮平演じる地元の半グレ実業家アニキが怖すぎてヒロインが無事なのが不思議&ラスト直後に彼女は陰惨な状況に陥るはず。だがバッドエンドを踏み越えて生きる彼女も想像できる。働かぬ川瀬陽太が悪い。
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映画評論家
松崎健夫
空き缶やペットボトルなどのゴミを脚で踏み潰す姿。やがてそれは、劇中の現実で撮影された映像であることが判明する。つまり、劇中における“虚構”なのだ。物を壊すことでフラストレーションを発散する行為が“虚構”であるということは、主人公のフラストレーションが解消されていないということになる。つまり“クラッシュビデオ”を冒頭に見せることで、困窮したJKの収入源を伝えるだけでなく、破壊衝動が治まらないほどフラストレーションが堆積していることを匂わせるのだ。
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カニバ/パリ人肉事件38年目の真実
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ライター
石村加奈
確信犯的映像に導かれて、チョコレートを食む男の口元なぞに見入っていると、一体何を観ようとしていたのか? と危うい心持ちになるが、本作の主人公を、佐川一政氏と双子のように育った弟と捉えて、タイトルの意味を考えれば、他人=兄をネタに飯を食うということか。かような視点から、ラストの一政氏を「奇跡」とは到底思えぬわいと見据えるうち、ピンぼけのカメラが捕らえようとしていたのは、卑猥な好奇で心を満たそうとする38年目のカニバ的観客だったのでは!? と戦慄した次第。
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映像演出、映画評論
荻野洋一
本作の被写体が映画の被写体に値するのかは措いておくとする。人物を真面目に捉えようという意志ゼロのカメラは、思わせぶりにピンぼけ画面へと、肌の凹凸も露わな超クロースアップへとスタイル化させ、この輪郭を欠いた画面の背後には何事かがあるんだぞと凄んで見せる。監督2人組はハーヴァード大学感覚民族誌学研究所のメンバーで、世界に冠たる最高学府のエリートだ。そのエリートが雁首揃えて何をやっているのか。前作「リヴァイアサン」で生じた疑念が今回、確信へと達した。
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脚本家
北里宇一郎
佐川氏は孤独だ。なぜそうなったかは自覚している。闇の中で暮らしている。弟が寄り添っている。自分しか兄の面倒を見る人間がいないから。切ない。だけどこの弟にも満たされぬ想いがあって、特殊な性癖が。苦しい。佐川氏は最後に(監督から)女性をあてがわれる。まるでご褒美のように。久しぶりに他者から人間扱いされて佐川氏は生気を蘇らせる。終始、ごろんと放置したようなキャメラ・アイ。あの奇矯な「リヴァイアサン」の監督か。なるほど。無機質な観察者の眼だ。肌に合わない。
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さらば愛しきアウトロー
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翻訳家
篠儀直子
冒頭から全ショット、あまりにも〈映画〉すぎて震える。レッドフォードと、TV画面のなかのC・アフレックの目が合う(!)瞬間、感激のあまり動揺する。過去を語る部分が見たこともないよどみなさで現在のなかに取りこまれ、パンニングと反復が心地よく、跳躍を交えた素晴らしい編集のリズムに、ダニエル・ハートの音楽が完璧にシンクロする。「セインツ」で一躍脚光を浴びて以来、傑作しか発表していないD・ロウリーだが、これはもはや偉業の域。この先どこまで行ってくれるのか!
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映画監督
内藤誠
人を絶対に傷つけないという実在した銀行強盗の晩年をロバート・レッドフォードが俳優の引退作品として、しわの多くなった顔の、紳士然とした風貌で淡々と演じる。「明日に向って撃て!」の昔日を思い出して感無量。共演のケイシー・アフレックやシシー・スペイセクも渋い。ハリウッド大作なら、派手な脱獄の場面やカーアクションもできたはずなのに、サンダンス映画祭で育てたデイヴィッド・ロウリー監督による、自主映画タッチの作品で静かに引退とは。感情移入して、星を加点。
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ライター
平田裕介
その状況も物語も違うが、銀行での幕開けは「ホット・ロック」、刑務所内での姿は「ブルレイカー」といった具合に“俺(私)にとってのレッドフォード映画”を彷彿させる場面がアチコチに。狙っているかどうかはともかく、それだけ我々のなかにレッドフォード御大が染み込んでいるのは確か。小悪党のようでなんだか大物という否応なく支持してしまう主人公の造形を筆頭に、大スターであった御大自らが製作も務めているだけにその輝度が一瞬でも下がらない作りになっているのもお見事。
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今日も嫌がらせ弁当
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映画評論家
北川れい子
中井貴一のハイテンションなナレーションに誘われ、つい見てしまうNHKの“サラメシ”。ランチや弁当の中身もさることながら、日常の中で取材される人々の多種多様な仕事も私には面白い。実話がベースというこの作品の母親は、いくつもの仕事を掛け持ちしながら、反抗期の娘の弁当作りに工夫を凝らす。反抗期といっても大したトラブルがあるワケでもなく、シングル・マザーの母親も楽天的、あとは凝った弁当と些細なエピソードがあるだけ。サラっと観られる消化のいい映画。
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映画文筆系フリーライター、退役映写技師
千浦僚
子どもが独り立ちする直前まで見せる親に対する生意気は当然のことだし問題ない。大抵の親が差し引きで考えれば引き合わぬ“育てる”ということをやり遂げうるのは、子のごく幼いときの無心の笑みや微笑ましい振る舞いで既に報われているから。だがそれはいつかは更生し、感謝に転じるほうが望ましい。それは親の満足の問題でなく、その謙虚さやそこまで思いが至ることがその後その子を生き易くするから。そういう超普遍的なことを優れた実話ネタをもとに説教臭なく楽しく見せた作。
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映画評論家
松崎健夫
反抗期の娘は母親と「口をきかない」=「喋らない」。一方で、この映画の登場人物は総じてよく「喋る」。母親に至っては独り言のオンパレードだ。しかし、娘が少しずつ「喋る」ようになると共に無駄な台詞が徐々に削がれていることが判る。そして映画の終盤では、母親が娘の卒業のために作った“最後のお弁当”の映像を見せるだけで全てを語ってみせている。そこに台詞はない。キャラ弁を作る時間は、相手を想う時間でもある。その総和と台詞の総和とが、実は均衡しているのである。
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アマンダと僕
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批評家、映像作家
金子遊
大人になってみると子どもって他者だ。何を考えているか全くわからない。それが女の子なら尚更だ。シングルマザーの姉が事件に巻きこまれ、24歳の青年が7歳の姪の父親代わりになるまで。あざとい。アマンダが無口になるほど、大人は彼女の心がどれだけ傷ついているか想像をめぐらせてしまう。娘の父親になることは、誰かと結婚すること以上に荷が重い。だって、子どもへの愛情は無償の行為が求められるから。あざとい。誰だってダヴィッド青年の心の揺れに共振せざるを得ない。
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映画評論家
きさらぎ尚
テロ事件で母親を亡くし、突然一人ぼっちになった小学生の少女。不憫なシチュエイションは泣ける映画という惹句がぴったりだが、そんななウェットなドラマではない。テロ事件に社会的、もしくは政治的な意味を持たせず、母親を奪われた一人の少女の、個人の悲劇とする視点があるからだろう。あくまで個人としての二人、少女と叔父の繊細な感情の交感は、だから美しくリアル。そのトーン、つまり二人の悲しみや寂しさや怒りを、寄り添っているように、共有させる叙情性が独創的。
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映画系文筆業
奈々村久生
「サマーフィーリング」からの流れで観るのがベスト。ミカエル・アース監督の作家性やテーマがきれいにつながって作品の垣根を越えた連動が見られる。突然父親の役割を引き受けることになった若手のヴァンサン・ラコストはいわゆるフランス映画ならではの佇まいで、かつてのマチュー・アマルリックやロマン・デュリスみたいな系譜を思わせる。娘のアマンダ役のイゾールが、いわゆる誰もが愛でるような愛くるしいルックスやキャラクターでないのもいい。この路線でもう一本ぐらい観たい。
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ハッピー・デス・デイ
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翻訳家
篠儀直子
ループの開始前から、つまり面白いところが始まる前から、男子学生の部屋を飛び出したヒロインがキャンパスを歩く姿を観るだけで、きらきらと躍動する画面に、これは絶対楽しい映画になるぞという予感でわくわくする。実際、驚かせたりはらはらさせたり、笑わせたり泣かせたりのギアチェンジにほとんどよどみがなく、画面が的確にヒロインの心理を伝えているのも、最低のビッチだった彼女が生まれ変わっていく過程も最高に素敵だ。ジェシカ・ロースがさまざまな面を見せてとてもいい。
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