映画専門家レビュー一覧

  • GOLDFISH

    • 脚本家、映画監督

      井上淳一

      バンドの再結成モノ。元メンバーを集めようとするが、酒に溺れる北村有起哉が難関。結局、復活ライブを前に北村は自殺するが、なぜかは分からない。見えないものが見える、わからないことがわかるのは辛いと語られるがオカルト過ぎて。そこをちゃんとやらないと再結成までの時間も意味も何も見えない。役者が魅力的なゆえに描かれていない内面が見え隠れするが、過剰に戯画化されたキャラが邪魔をする。語り口は懐かしいが、これでは音楽に遠く及ばない。ノット・サティスファイド。

    • 日本経済新聞編集委員

      古賀重樹

      亜無亜危異のギタリストが自分たちのバンドをモチーフに撮ったフィクションだから、現実と違うところも、重なるところもあるだろう。献辞の通り、核にあるのは再結成を前に50代で急逝したメンバー逸見泰成への思い。ニルヴァーナやセックス・ピストルズが映画になったように、亜無亜危異も映画になると思う。ただそれを当事者が作るのは難しい。ロックは生きざまだから、エンドロールの現実の亜無亜危異のライブがすべてを物語ってしまう。フィクションが拮抗し得るのか。

    • 映画評論家

      服部香穂里

      藤沼伸一監督の亡きバンドメンバーへの哀悼の念が、全篇ににじむ。再結成までの30数年間の音楽業界の目まぐるしい変遷のようなものが、背景としてもう少し具体的に描かれていれば、時代も無視して我が道を爆走し続ける永遠のパンク野郎・アニマルをあいだに挿み、厳しい世界をギターの腕一本でたくましく生き抜いてきたイチと、何かと対応できずに堕ちていくハルとの、非情にすれ違う運命の切なさが一層劇的に引き立ち、監督の願いが託されたエンディングも、さらに活きたと思う。

  • 生きる LIVING

    • 映画評論家

      上島春彦

      官僚制の本場(?)英国が黒澤をリメイクしたら基本さらに傲岸かつ陰湿な(これは悪口ではない)映画になった。さすが。主人公を称してミスター・ゾンビというのも上手い。キャラクター全般にオリジナルのような愛嬌はない。しかし、その分、部下の女性と新人で補い、温かさを出す。また〈アローン・トゥゲザー〉や〈黒い瞳〉等の懐メロの使い方に味がある。オリジナルのように理詰めで落ちまで持っていくのではない(せっかくの帽子の使い方が上手くない)が、ここまでやれれば納得だ。

    • 映画執筆家

      児玉美月

      書類が積み上げられたデスクが並ぶ室内の圧迫感のあるフレーミングによる画の再現などをはじめオリジナル版である黒澤明の「生きる」に忠実でありつつ、抑制の利いた演出ではありながらも、本作はよりオーセンティックな雰囲気で感情的な仕上がりになっている。主人公の男とマーガレットとの関わり方も本作では現代にあわせて描かれていたように思う。黒澤版ではブランコに乗る主人公を捉えた映像がとりわけ印象深いが、本作でブランコは無人と化しラストショットへと配されている。

    • 映画監督

      宮崎大祐

      リメイクが成功する原作というのは、誰がどう見てもそれなりに良い作品ではなく、語る主体によって評価が真逆になるような作品だ。それは、この原作にはこんな可能性もあったのかという驚きこそが観客を熱狂させるからであって、「やっぱりよかったね」という安全な反応を引き出すため制作するには映画はリスクが高すぎる。本作も俳優は良い。絵も美しい。だが、驚きは何ひとつなく、これでもかとナレーションで泣かせにかかる後半の蛇足に次ぐ蛇足の展開にはさすがに鼻白んだ。

  • エスター ファースト・キル

    • 映画評論家

      上島春彦

      あの娘がどうやってエスターになったか、というお話。ある病気を思いっきり悪意をもって描いており物議を醸すかも。今更それはないか。ともあれ昨今ここまで台詞で「フリーク!」を連発する映画は珍しい。香港映画「殺人鬼」も似た設定を使っていたが、彼女が潜入する一家が実にワケありで、これの方が巧妙だ。名作「テオレマ」とは似て非なるコンセプトとはいえ、作者の意識にはかすっただろう。ジミー・デュランテ歌う〈グローリー・オブ・ラヴ〉が絶妙な効果を上げているのも加点。

    • 映画執筆家

      児玉美月

      子供が一般的には純粋な存在であると見做されていることを逆手にとって天使の皮を被った悪魔を描いてゆくこの映画では、その作品の骨子である二重性を、表面的には親子である近親相姦、表面的には失踪である殺害、表面的には子供である大人など物語の至るところに鏤める。ひとりの男を取り合って女同士が敵対してゆく挿話は古めかしい図式に堕すかもしれないが、25歳の役者によって演じられる9歳の少女の見え方が万華鏡のように変容してゆく様から目が離せず引き込まれてしまう。

    • 映画監督

      宮崎大祐

      第一作がホラー史に残る大傑作だったためにおのずと期待値は上がる。例の秘密の開示を前提とした続篇はただのモンスターものになりかねず、相当な困難をともなったことが想像される。その結果として本作の中盤以降の残念な展開はあったのだろう。とはいえ、各シーンは丁寧に撮られているので、この規模のホラー映画にありがちなB級感は排され、なぜだか見つづけられるスケール感は獲得している。ファンによる「エスター」の二次創作だと思って見るとちょうどいいのかもしれない。

  • 屋根の上のバイオリン弾き物語

      • 映画評論家

        上島春彦

        名作映画の裏側を監督他、関係者がたっぷり語る。ノーマン・ジュイソンと言えば「夜の大捜査線」で黒人が白人を平手で殴り返す場面が有名。ちゃんとここにも引用され、時代の雰囲気を印象付けている。ジュイソンの盟友ジョン・ウィリアムズの饒舌ぶりも特筆すべき。本ドキュメンタリーの監督は映画美術家ロバート・ボイルの生徒だそうで企画に対する姿勢もスタッフワークの痒い所に手が届く手厚さあり。つくづく「バイオリン弾き」は時代のアイコンだったのだなあと実感させる。

      • 映画執筆家

        児玉美月

        ミュージカル曲のリズムに合うように役者が昇降する梯子の段数を調整するという音楽と美術の関係性や画面全体の色調を茶色に見せるためにカメラのレンズにストッキングを被せる撮影方法などが興味を引く。ホロコーストにより欧州では消滅した木造のシナゴーグが資料を基に撮影地に建設され、失われたものへの熱意という意味で「屋根の上のバイオリン弾き」の制作自体がディアスポラ的である。また本作を観る観客も旧ユーゴスラビアという失われた撮影地へ眼差しを向けることになる。

      • 映画監督

        宮崎大祐

        監督のノーマン・ジュイソンを中心に、映画「屋根の上のバイオリン弾き」の制作にまつわるあれこれに迫るドキュメンタリー。ミュージカルを原作とする本作の映画化にあたり、舞台版のキャストがそのまま出演するというケースがあったようで、その際行われた舞台から映画への演技の「翻訳」の逸話が興味深かった。ただし、映画版が「撮られた舞台」を乗り越えられているかどうかはいささか疑問であり、本作もDVD特典についているメイキング映像を超えるような何かが欲しかった。

    • トリとロキタ

      • 映画監督/脚本家

        いまおかしんじ

        ギリギリの生活。冒頭から尋常じゃない緊張が続く。この先どうなってしまうのか。胸が締め付けられる。部屋で嘘をつく練習。ひっかけ問題と笑うトリ。ロキタもトリといる時だけは笑顔を見せる。二人だけの時間がとてつもなく愛おしい。大麻を育てている建物の禍々しさ。閉じ込められるロキタ。めちゃくちゃ不味そうな冷凍食品を食べる。食が進まない。ロキタはスマホのトリの写真を見ながら食べる。何気ないシーンに震える。犯罪でも何でもいいからこの二人に生き延びてほしい。

      • 文筆家/俳優

        睡蓮みどり

        不安そうなロキタの視線とじっと見据えるようなトリの視線。ふたりの視線が交差するだけでこの映画を見る価値があるだろう。生活のためにしたくもない仕事をし、ビザのために姉弟だと偽る。嘘や苦しみのなかで垣間見えるトリとロキタふたりの間にある確かなものが煌めくのを感じた。生きるためにするふたりの行動のすべては、しかし生きるためだけではないということにも気付かされる。映画というフィクションを通して見る現実をどのように受け止めるか。

      • 映画批評家、都立大助教

        須藤健太郎

        ダルデンヌ兄弟は出来事(アクション)の継起を追い、ショットを積み重ねていくことでしか生じない何かに到達することを目指してきた。とすると、2人の映画が「活劇」の様相を帯びるのは当然の帰結であり、それを現代西欧社会の教訓譚として受け取るだけでは不十分だ。本作では、なによりトリ役のパブロ・シルズの体幹の強さが画面に安定と躍動感をもたらしている。道路を横断するときの走り。飛び跳ねるような自転車の立ちこぎ。ロキタの居場所を突き止め潜入する姿は私立探偵。

    • 自分革命映画闘争

      • 映画・音楽ジャーナリスト

        宇野維正

        「自分」「革命」「映画」「闘争」と、どこを切っても潔く宣言されているように、これは石井岳龍監督の信奉者でなければとても耐えられない、観念と抽象とナルシシズムと仄めかしと誇大妄想と自己憐憫の165分だ。もし本作に賛否両論が起こり得るとしても、それは信奉者、あるいは本作でカメラの前に立たされた彼の制作スタッフや、彼の生徒の中でのことでしかないだろう。その外側は最初から観客として想定さえされてなく、それこそが本作に込めたメッセージだと自分は受け止めた。

      • 映画評論家

        北川れい子

        かなり仰々しいタイトルだが、アニメにミュージカル、特撮だけではなく、いきなりファシズムの連中まで登場する石井監督の妄想的で実験的なモキュメンタリーである。字幕によるひっきりなしの短い文言は、映画=映像という芸術マジックに対する監督なりの試行錯誤から生まれた言葉なのだろうか。そういえば久しぶりに「第七芸術としての映画」なる言葉も耳にした。ただスタッフ兼任だという出演者たちによる発言や歌が、やたらに長いのがしんどい。これも映画の多様性?

      • 映画文筆系フリーライター。退役映写技師

        千浦僚

        冒頭から自己言及による自閉を感じ、ちょっと乗れないかも、と警戒したが、次々と繰り出される石井岳龍の企み(アルタード・ステーツ・オブ・マインド、「箱男」etc.)は見るほうを落ち着かなくさせるあのおぼつかない若者たちを、数十分間のうちに観る甲斐のある存在に羽化させた。見事。邦画伝統の、助監督がエキストラの芝居をつけること、が、ヤングらが自前で闘うことに重なるラストに感銘を受ける。革命とは王殺し。石井は若者らに俺の屍を越えてゆけとまで説いている。

    • ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー

      • 映画・音楽ジャーナリスト

        宇野維正

        本シリーズのシグネチャーは、90年代タランティーノ的な脱線だらけの日常会話台詞と、趣向を凝らしたバトルシーンということになるのだろうか。前者に関しては会話の半分は上手くいっていて、残りはわりとスベってるという認識。後者に関してはバトルシーンで鳴り響く劇伴のラウドロック感が「いくらなんでも古くさいのでは?」という立場。しかし、今回はプログラムピクチャー的な気楽さが作劇においても上手く作用していて、重箱の隅をつつくのは野暮だと気付かされた。

      • 映画評論家

        北川れい子

        近年の日本映画でもっともぶっ飛んだエンタメキャラの2ベイビー。熱狂的なファンがいるというのも納得する。ストーリーよりもキャラクターとアクションが先行する作品だが、今回も二人組の殺し屋女子は、モノに囲まれた部屋のカウチにダランと座って食べたり喋ったり。それが退屈しないのは、彼女たちの見せ場として、サマになっているからだ。むろんガチなアクションも。正規雇用の殺し屋になるために彼女たちを狙う非常勤の殺し屋兄弟のキャラが、彼女たちの二番煎じなのも愉快。

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