映画専門家レビュー一覧
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エンドロールのつづき
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日本未公開映画上映・配給団体Gucchi's Free School主宰
降矢聡
「ニュー・シネマ・パラダイス」に酷似してはいるが、本家にあった強烈な映画への郷愁は比較的抑えられており、そのかわりに本作ではインドの文化や風習などを存分に利かせる。映画の本筋とはあまり関係のなさそうな、インド家庭料理のチャパティとスパイス料理の執着はすごく、確かに美味しそう。また、子どもたち同士で映画館と映写機を作ってしまう、見る者の少年心をくすぐるはずの秘密基地づくりシーンは、映画館の完成度が高過ぎて、くすぐりきれていないところが惜しい。
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文筆業
八幡橙
自分以上の映画好きはいないと語るパン・ナリンが脚本を書き、監督した、映画愛に満ち満ちた自伝的作品。子どもと映写室の掛け合わせを見るまでもなく、イタリアの、あの映画を露骨に思い起こさせる。映画という“光”に魅了された少年は無垢で愛らしく、母の作る手料理は色鮮やかで美味しそう。こだわりの光の描写も繊細で、実に美しい。だが、最後まで少年が監督の大人の目線や思惑通り右に左に動かされるコマにしか見えず、鼻白んだ。自身の郷愁を引いて撮ることは難しい。
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母の聖戦
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
メキシコの何気ない街の風景が怖い。車の荷台に乗っている軍人の銃が怖い。母が目をひん?いて街をさまよう。車の中からのショットが不安を煽る。優柔不断な夫は自分のことしか考えていない。金だけ取られて娘は帰ってこない。物語はどんどん予想を裏切っていく。手を組んだ軍人も胡散臭い。誰も頼れない。自分でやるしかない。彼女がカバンからピストルを取り出したときにはドキッとした。撃たないでくれと祈る。母の聖戦は孤独だ。どこにもたどり着かない。胸が苦しい。
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文筆家/俳優
睡蓮みどり
母は強し、とか、女は強いとか、そういう言葉をこの映画に対して絶対に使いたくないと思った。自分の娘が生きているのかさえわからない状態で、それでも生きていかなければならない。自分が生きていなければ娘を見つけ出すことは絶対にできないからだ。危険のなかに自らずんずんと突き進む、生きる覚悟が焼き付けられている。ここにあるのは怒りの共闘だ。モデルになった女性の話から、これを映画にしなければと思った監督の使命感を、強い光を宿した母シエロの瞳から感じ取る。
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映画批評家、都立大助教
須藤健太郎
原題は「市民」。その邦題が、なぜ宗教的な概念である「聖戦」になってしまうのか。しかも、「聖戦」といえばいまではイスラームにおけるジハードをすぐさま想起させる単語でもある。この映画は、警察でも軍人でもない、ましてやマフィアでもない民間の一般人の女性が誘拐された娘を探すために奔走するという話なので、邦題は内容にそぐわない。「母」はともかく、メキシコが舞台なのにどうして「聖戦」なんて言葉が浮かんだのか。この一語でどういう観客層に届くのかを考えてみる。
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ヒトラーのための虐殺会議
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
続々と人が集まってくる。そして静かに会議が始まる。何でこんなにユダヤ人を抹殺しなきゃいけないのかよくわからない。出席者たちはそれが当然であるかのように粛々と殺し方について話し合う。みんな俺が俺がで自分の管轄がいかに大変か自己主張する。ヒーローみたいな格好いい人は誰もいない。会議の席順とかにこだわるセコさも普通の人すぎて逆に怖い。ヒトラーの人を懐柔するテクニックには舌を巻く。正義と思い込んだ人間が才能を発揮するとこうなるのか。ただただ怖い。
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文筆家/俳優
睡蓮みどり
いかに効率的に、いかにコストがかからないようにユダヤ人を「駆除」するか。およそ人間に対して使うとは思えない言葉が繰り返し発せられる。これはエイリアンたちの会話だ。人間の姿をしているが人間の会話ではない。残虐シーンはひとつも出てこないのに、淡々と行われる会議の恐ろしさに見ていて吐き気を催した。すごく精神的にくる映画であった。ヒトラー不在の中、すでに答えの決まった会議に観客は参加させられる。これ以上戦争を始めないためにも、あの吐き気を忘れない。
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映画批評家、都立大助教
須藤健太郎
原題は「ヴァンゼー会議」。コピーも本来は「人類が戦争に負けた時」で、会議の議事録を基にした、いたって真面目な室内劇にして会話劇。見終わってみると、日本版の宣伝から想像されるものとはまったく異なる印象を持つだろう。交わされる会話は議事録そのままではないにせよ、役人同士の意地の張り合いから殺人の分業体制(効率上昇と処刑人のPTSD問題の解決)まで、主題はすべて出揃っていたわけだ。ショットの積み重ねとして作品を構成しようという意志に貫かれた一作。
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野獣の血
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映画監督/脚本家
いまおかしんじ
小さな港町が舞台。主人公の男はやたらみんなから挨拶される。地元の人たちから好かれているのがわかる。いいやつだ。義理と人情の板挟みになる。良かれと思ってやったことがことごとく裏目にでる。どっちを取ってもダメっていう状況設定はよく練られている。先が読めない。どんどん追い詰められていく男。さてどうする? 目が離せない。おっさんがバカでかいナイフを若者の腹に突き立てる。暴力描写はひたすら残忍。血の匂いがしてくる。アホな男たちはアホから逃れられない。
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文筆家/俳優
睡蓮みどり
やくざ映画の面白さとは何かということを少し前にずっと考えていて、いまだに答えが出せないままでいる。冒頭の演歌調の音楽の使い方など懐かしさがあり少しテンションがあがったものの、基本的にバイオレンスシーンが続き単調。施設育ちの仲間や恋人との関係などなど、人物像やストーリーに目新しいものがあるわけでなく、むしろ希薄な感じさえしてしまう。一匹狼の魅力的なキャラクターは国に関係なくこれまでも描かれてきた。新たなやくざ映画を現代に作るのは難しいのだろうか。
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映画批評家、都立大助教
須藤健太郎
そもそも設定に無茶があるのではないか。物語は類型に沿うもので、その点はジャンル映画においてはむしろ美徳でさえあるが、過酷な試練を通して人生を学び、幼馴染みに手を下し、ついには父殺しを経て一人前になるという、この「大人になるための通過儀礼」の主人公の年齢が40歳なのだ。結果、過去といえば30年前の養護院の思い出ばかりで、20?30代の記憶を欠いた、経験に乏しいいびつな中年男が出来上がる。「40代もまだ若い」というエールなら喜んで受け取るけれど。
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世界は僕らに気づかない
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
サブタイトルに「Angry Son」とあるが、主人公の男の子がアングリーどころか健気すぎて、序盤から切なくなってしまった。その気持ちを最後まで引きずっていたせいか、物語の大団円にもどこかモヤモヤが。パート先のボウリング場での母親を巡る一連のシーンを筆頭に、注意深く見ればそんな「モヤモヤ」も取りこぼしていないのだが、演技のバラツキが作品全体の足を引っ張っている。眼差し一つですべてを表現できる、堀家一希の演技が突出しすぎているのがその一因とも言えるのだが。
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映画評論家
北川れい子
途方に暮れる僕もいれば、自分の立ち位置に悩む僕もいて、僕はそれぞれに大変なのだった。おっと、タイトル絡みとはいえ、ふざけてごめんなさい。同級男子を愛しているフィリピンのハーフ男子が、自分に正直に生きようとする話で、舞台は地方だが、少年たちを追い詰めるようなエピソードがほとんどないのが気持ちいい。主人公は、フィリピンパブで働くいつも口うるさい母親にウンザリしているのだが、どの人物もあえて肯定的に描いているのにも感心する。ラストがまた上等だ。
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映画文筆系フリーライター。退役映写技師
千浦僚
つい最近もルビー・モレノ氏が久しぶりにスクリーンに登場し、力強い存在感を放つのを高橋伴明監督「夜明けまでバス停で」にて目撃したが、本作にも正規の労働に掬われることのない在日フィリピンママの生活苦がある。経済格差の嵩にかかった日本の男ども、ダメだった。本作はその二世の話であるが、彼のアイデンティティはセクシャルな面でも困難を抱える。だが本作はユートピアを示す。白タキシードが二人並ぶ光景は実に映画的で面白い。映画は同性婚を祝福するメディアだ。
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そして僕は途方に暮れる
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映画・音楽ジャーナリスト
宇野維正
「愛の渦」池松壮亮、「何者」佐藤健、「娼年」松坂桃李と、これまでも三浦大輔監督は若い男性俳優のポテンシャルを引き出す際に見事な手腕を見せてきたが、本作でどうしようもないクズ男を演じている藤ヶ谷太輔は、あまり出演作に恵まれてこなかったことに恨み言を言いたくなってしまうほど魅力的。シネマスコープで映し出される苫小牧の風景、キャプラ「素晴らしき哉、人生!」への気の利いたレファレンスなど、舞台の映画化という意味においても隅々まで「映画」の必然に満ちている。
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映画評論家
北川れい子
「愛の渦」然り、「娼年」然り、三浦大輔監督の作品は、ドラマ性より人間観察的で、それもかなり極端で生臭い。ロードムービー仕立ての本作は、三浦監督が手掛けた舞台劇の映画化だそうで、人間観察と人間関係というドラマが互いに追っかけっこしているのがミソか。とはいえ、吹けば飛ぶような自己チューの甘ちゃん男を、人間関係という流れで北海道まで泳がせてしまうとは。主人公のキャラに共感する気はないが、藤ヶ谷太輔の途方に暮れ顔にムリがなく、ついズルズルと引っ張られた。
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映画文筆系フリーライター。退役映写技師
千浦僚
不足ないキャスティングと熱演、脚本演出の工夫により飽きずに観ながら、いちゃもんのようにもっと面白いかどうかをも振り切った独自の深さを求めてしまった。それは失踪、蒸発という行動について旧くは67年の今村昌平「人間蒸発」(蒸発者を追うモキュメンタリー)と若松孝二「性の放浪」(「人間蒸発」への返歌)があり、ごく最近では「ある男」というなりすましを発端として人のアイデンティティを問う秀作もあったため、私の本作を享受するための余地は狭かった。
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ひみつのなっちゃん。
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脚本家、映画監督
井上淳一
脚本家の監督作品なのであえて強く書くが、脚本がダメ。会話劇なのだが、会話の面白さを狙っているだけで、そのシーンで物語も人物の感情も次へ動いていかない。一例を挙げるなら、前野朋哉の失恋話。話を埋めるためだけにあって、プチ対立、あっという間の邂逅と何も機能していない。短篇アイデアなんだよね、基本が。だいたい死んだママがドラァグクィーンなのを隠そうとする一人相撲からして、もうバカらし過ぎて。どれだけ役者が頑張っても、一スジ二ヌケ三ドウサは変わらない。
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日本経済新聞編集委員
古賀重樹
孤独に死んだLGBTQ+の先輩を見送るために東京から岐阜・郡上八幡の実家へと向かう3人のドラァグクイーンたちのロードムービー。滝藤賢一、前野朋哉、渡部秀という芸達者な俳優がそれぞれに個性的なドラァグクイーンを演じている。感情の起伏を極端に誇張したコメディタッチのドラマがなんとか前に進んでいくのは3人の俳優の手柄だろう。女装するという行為を「隠す」ことと「明かす」ことを巡る人情噺というのはわかるが、いささかくどく、テンポが悪いのが残念。
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映画評論家
服部香穂里
旅する3人にとって、故人が恩人であることが前提のはずだが、アッコちゃんさながらのコンパクトにまつわるエピソード以外は人となりを想像させることもなく、その存在感や影響力がいまひとつ伝わってこないため、ロードムービーの情感に欠ける。踊れなくなったドラァグクイーンの再生話としても、なぜ行きづまり、失われかけていた誇りを取り戻すに到るのかの経緯が不明瞭で、母の愛を茶目っ気たっぷりに体現する松原智恵子の名演をもってしても、腑に落ちないものが残る。
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